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あみの3ブログ

加納城@岐阜市加納町 2024年10月26日

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加納城は、徳川家康が慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の直後、築城を命じた城です。北から南へ5つの曲輪(三の丸、厩曲輪、二の丸、本丸、大藪曲輪)があり、それらは堀と川に囲まれ、「水に浮かぶ城」という景観でした。また、石垣などは関ヶ原合戦で落城した岐阜城から運んだと伝えられています。
 初代城主は徳川家康の長女「亀姫」の婿、奥平信昌で10万石が与えられ、それ以降代々の城主は譜代大名が勤めました。明治維新の後、建物はすべて取り壊されてしまい、堀も埋められ、今では、本丸の石垣と土塁、二の丸や三の丸の北側石垣や、三の丸北東部分に当時を偲ぶことができます。
 本来の本丸の出入り口である大手口は東側凸字型に出っ張った部分にありました。これは「外枡形」という、徳川氏が初期に作った城の特徴と言われる形です。 
 昭和58年(1983)本丸が国の史跡に指定されてから、発掘調査が行われ、江戸時代の加納城の地面の下に戦国時代の加納城の土塁が埋もれているのが確認されました。また、本丸の堀の底には『堀障子」と呼ばれる畝状の仕切りがあったこともわかりました。さらに二の丸では、当時使用されていた陶磁器が多数出土しました。
 城下町は加納城の北から西にかけて造られました。町の北部を「中山道」が東西に通り、寛永11年(1634)には「加納宿」が設置され、城下町と宿場町が一つになりました。岐阜と名古屋を結ぶ「尾張街道」が町の東で中山道と交差する交通の要衝でもありました。町の北西部と南西部に寺社が集中的に置かれ、城の北と西側一帯、北の町外れにも武家屋敷がありました。
 美濃傘と呼ばれる『和傘』の生産は、宝暦年代(1760)頃当時の藩主長井氏が財政の助けとするため奨励し、武士と町民の分業作業として発展しました。明治以降も加納の伝統産業として受け継がれてきています。、、、現地案内板より(岐阜市教育委員会)


場所は岐阜市加納町
JR岐阜駅からは、県道54号線東海道本線・高山線のガードをくぐり、国道157号線を進みます。「加納城南通2東」の交差点を左折し県道77号線へ。「加納城南通1」信号から一つ目の交差点を左折すると城址公園に到着します。駐車場は土橋を渡って右側にあります。


遺構

加納城縄張図と想像図イラスト、、、現地案内板より
今回は本丸跡の土塁と石垣、内堀跡のみの見学でしたが、二の丸跡地に建つ岐阜地方気象台周辺には、岐阜城から移築されたとされる「御三階櫓」があったそうで、一部の石垣も残っており見逃したことが悔やまれます




当時の「大藪曲輪」辺りから本丸南門「臆病門」を見る。



城址公園入り口、当時は「臆病門」がありました。



右側に専用駐車場があります。
本丸内堀南面の東側にあたります。



本丸内堀南面の西側は埋め立てられていますが、堀の跡を伺うには十分です。



臆病門跡から本丸にはいります。
南面土塁上より



南東隅櫓跡(巽櫓)
二重の櫓が建っていました。



東面土塁



東面に凸型に突き出しているのは「外枡形虎口」
本丸の正門があった場所です。



枡形虎口土塁
大手門である「鐡門」がありました。



枡形虎口北面、内堀には「極楽橋」が架かり、「筋金門」が待ち構えていました。




北東隅櫓跡(艮櫓)
二重の櫓が建っていました。



北面土塁



北面土塁の内側に残る石塁跡



北門の東側に残る北面石垣



北東隅石
この上に北東隅櫓(艮櫓)が建っていました。




北門から東方向を見る
内堀北面と「二の丸」方向



北門から西方向を見る
内堀北面と「厩曲輪」方向



北面石垣と内堀



北西隅石
この上に天守台がありましたが、天守は造営されなかったそうです。



天守台石垣



西面内堀



西面石垣中央部に有る折れ部
西櫓(酉櫓)



チャートと間詰め石



南西隅石
この上には南西隅櫓(坤櫓)が建っていました。



南面堀





南東隅石
この上に南東隅櫓(巽櫓)が建っていました。



東面堀と石垣




枡形虎口の凸型出っ張り


民家の辺りに極楽橋と筋鐵門がありました。




東面内堀と道路を挟んで公園、当時は「舟入」と言って、東の外堀荒田川から二の丸に入る船着き場のような施設と二重櫓が建っていました。




余談になりますが先に訪れた黒野城
城主加藤貞泰が長良川の洪水対策として築いた堤のせいで、加納藩側に長良川の水があふれ出たと、亀姫が父である徳川家康に申し出たことが、加藤貞泰移封の原因であったという説もあるようです。
結果、黒野4万石は加納藩領となりました。



ヤマップ3D



ヤマップ行程データ




【加納城】
《》

名称(別名);かのうじょう
所在地;岐阜市加納町
城地種類;平城
築城年代;慶長7年(1602年)
築城者;奥平信昌
主な城主;奥平氏、戸田氏、安藤氏、永井氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;御三階櫓(独立式層塔型3重4階(1602年)非現存)、土塁、石垣、堀

※出典、、、
地図;


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