本編八幡山城の記事は→こちら
【山麓居館群】
八幡山城を特徴づけるのが、山頂城郭部分とは分離して築かれた南山麓の居館群で、谷地形の中央部分、標高約130mの地点から雛壇状に築かれています。秀次館跡は、その雛壇状の居館部分の最上部に位置します。ほぼ中央に巨大な内枡形の虎口が設けてあり、その両側は西側で二段、東側では四段の高石垣を構えています。
これまでの調査の中で、秀次館に関連した大型の礎石建物跡と考えられる礎石列、それに伴う溝・流路状遺構などの遺構を確認することができました。この際、秀次館の建物に葺かれていたと考えられる金箔瓦を含む瓦類が大量に出土し、その中に秀次の馬印である沢瀉(おもだか)紋の鬼瓦が確認できたことから、この地点に秀次館本体が存在していたという確証を得ることができました。
大型の礎石建物は、部分的な発掘によるもので、全体的な規模は判明していませんが、間柱が約2mにもなるもので、礎石の配列状況から書院造の御殿ではなかったかと考えられます。、、、二の丸跡資料館展示の説明板(近江八幡市文化財政策部文化振興課)より引用
八幡山ロープウェイ乗り場の西隣に八幡公園があり、その西の端に居館群は位置します。
公園にはロープウェイ乗り場から広場(北脇邸跡)を抜けて徒歩でも行けますが、市立図書館側が正面入り口となります。
まず管理棟近くに設置してある「公園配置図」で場所を確認することにします。
最初に「秀次公の銅像」にご挨拶
銅像背後にある石垣。
小径を挟んだ竹藪の中にも石垣の痕跡が見られましたが、深入りせずに本来の目的地に向かいました。
公園内を西の外れまで進むと風景は一変し、竹藪ゾーンとなります。
案内図中のオレンジ色のゾーンです。
「大手道」
麓から頂上の秀次居館跡まで直線的に続く道は、安土城を彷彿とさせます。
「家臣館跡の石垣」
家臣団居館群中腹西側にある石垣。竹藪の中にありますが比較的足場が良く、西側の奥にまで伸びる石垣を確認することができます。
直角に折れ曲がった部分や、割石を用いた荒々しい表情が見所です。
同、東側にある家臣館跡の石垣
こちらは竹藪が密集しているため足場が悪く奥に進めないため、部分的な見学となりました。
家臣館の中でも最も分かり易い石垣が見られるがこちら。
大手道に面した東側で、頂上の秀次居館跡の直下と言う絶好のポジションからは、相当な地位の家臣だったことが想像できます。
東端には隅部が残っており北側にまで伸びていますが、途中からは崩落していました。
矢穴の痕跡
大手道の突当りが、いよいよ秀次居館跡です。
秀次居館の虎口に続く南西面の高石垣
それに続く一段下の石垣ですが、西に伸びる南面は竹藪に覆われ、立ち入りが抑制されています。
見どころは館中央の巨大な内枡形の虎口です。
先ほどの南西面の高石垣はこの虎口隅部に繋がり、見る者を圧倒します。
上段から見た西面虎口
上段が秀次居館の平坦面
虎口を形成するもう一方の石垣
虎口東側石垣
西側に比べ、虎口の隅部の形状はハッキリとは残っていませんが、それに続く南東面の石垣は竹藪に覆われながらも確認することができます。
東側虎口の南面には凸型の突起部があり、折れ部を観察することもできます。
突起部の角石
竹藪の中に侵入して撮影
虎口を抜け、上段の秀次居館跡に侵入
右手方向は竹藪ながら平坦面が確認でき背後の山の斜面まで進むことができましたが、左手方向は藪が密集しておりそれ以上進むことができませんでした。というか、進む根性がありませんでした(笑)
平坦面のあちこちにブルーシートを敷き詰めた痕跡が見られ、発掘調査が行われた事がわかります。
なかでもこの石積みの遺構は、縦横8m位で数段石を積み上げ四隅も奇麗に仕上げてあることから、何らかの建物・櫓的なものが建っていたのかなと妄想は膨らみます。
また、東側の藪の中にひときわ目を引く一角がありました。
青い竹に真っ赤な布が結わえられ、直下には小さなお稲荷さんが祀られています。
供え物などから今でも供養されていることがわかりましたが、一瞬ギョッとしますよね(;^ω^)
秀次居館から真っすぐに伸びる大手道は両側に家臣団の館群を設け、やがて築城時に開削されたという八幡掘りに至ります。
秀次家臣の誰がどの場所に住んでいたかの記録が残っていないので曲輪の主を特定することはできないそうですが、
のちに秀次謀反の嫌疑で自害に追い込まれた際、連座した重臣たちのなかにその主がいたのかも知れませんね。
前野長康 - 秀次後見。
前野景定 - 家老。
白江成定 - 家老。
熊谷直澄(直之) - 家老。
粟野秀用 - 家老。
一柳可遊 - 家老。
服部一忠 - 家老。
渡瀬繁詮 - 家老。
日比野下野守 - 尾張清洲奉行。
羽田正親 - 重臣
本多正氏 - 重臣。
【八幡山城】
《五つの郭で構成された主郭部》
名称(別名);近江八幡城
所在地;滋賀県近江八幡市宮内町他
城地種類;山城
標高/比高;283m/100m
築城年代;天正13年(1585)
廃城年代;文禄4年(1595)
築城者;羽柴秀次
主な改修者;京極高次
主な城主;羽柴氏(豊臣)、京極氏
文化財区分;なし
主な遺構;石垣、曲輪、空堀、犬走り、居館
近年の主な復元等;山麓部発掘調査
※出典、、、続日本100名城(学研)
地図;
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