2013年11月に訪問した際は観光目的だったので曲輪などほとんど観ていませんでした(笑)
【今回の目的】は春日山城が高田城に機能を移した流れと、その狭間にあった福島城の手がかりを求めてのお城歩きです。
まず「福島城」を探訪し、城下での一杯を愉しんでからの「春日山城登城」、そして「高田城公園」というコースです。
上越三城物語り・その1「春日山城」→こちら
上越三城物語り・その2「福島城」→こちら
三城の位置関係
上杉謙信公の跡目を継いだ上杉景勝は、豊臣秀吉により「会津120万石に移封」され、それに伴って堀秀治が入封しましたが慶長12年(1607)直江津港近くに福島城を築城して移ると春日山城は城としての使命を終えました。
その福島城は僅か7年でお家取り潰し、時代は徳川へと変わり以来350年親藩と譜代の大名が「高田城」の城主となりました。
【上越の地の重要性】を大きな地図で見てみましょう
北には東北の雄「伊達」と減封された不満を持つ「上杉」、西には加賀百万石の「前田」、佐渡島には「佐渡金山」、北國街道と江戸へ向かう街道の分岐点であり、さらに海上交通の拠点直江津港を背後に抱え、まさに【海と陸の交通の要衝】だったのです。
この地を押さえることは豊臣政権にとって全国制覇の要であり、次の徳川政権にとっては両者の間にくさびを打ち込み佐渡の金を江戸に運ぶ重要拠点でもあったのです。
福島城主堀家のお家衝動については諸説ありますが、改易・取り潰しの厳しい処置は、豊臣恩顧の大名を一掃し徳川政権を安定させたい家康の思惑があったものと思われます。
そして関ヶ原以降の不安定な状況で、一刻も早く拠点の守りを固め次なる戦に備える必要があったので、度重なる洪水の被害を受ける立地からの移転を決断したとするのが順当なようですね。
【天下普請】
慶長15年(1610年)堀忠俊の改易後に越後の領地を継承した徳川家康の六男・松平忠輝は慶長19年(1614)天下普請で高田城築城に着手しました。普請には米沢の上杉景勝や加賀の前田利常など13の大名が任命され、総裁には忠輝の舅・伊達政宗が就任しました。
特筆すべきは竣工までの期間の短さで、外堀を含め60haの広大な城郭が僅か4ヵ月で一応の完成をみたことです。
この背景には大坂の陣を控え、豊臣の重臣を牽制し、江戸の背後を固めたものと言われています。、、、三重櫓パンフより引用
【高田城の特徴】
天守閣が建設されなかったことと、石垣を積まず全体に土塁を巡らしている事。その理由は豊臣家との戦いを間近に控え、完成を急ぐ必要があったからと考えられています。
築城当時の櫓は二重の櫓でしたが、寛文地震の後三重の櫓に建て替えられました。
また二の丸・三の丸の土塁は全て撤去されましたが、本丸の土塁は築城当時の威容を誇っています。、、、同上
【高田城縄張り図】
【高田城本丸模型】、、、三重櫓内に展示
手前左が「三重櫓」、手前中央が「極楽橋」、橋を渡ると「枡形・門」があったことがわかります。手前右手が現在も残る「土塁」とそれに続く、右側中央に「枡形門」と堀に架かる東側土橋。
【現在の高田城公園マップと当日の行程】
三の丸広場の駐車場に車を停め、内堀沿いに土橋から「三重櫓」に入りました。その後内堀沿いに「歴史博物館」を訪問、北西隅から北面及び「西堀」を散策。「西堀橋」からプロムナードを通って「旧陸軍大三十三師団・赤レンガ門」から「極楽橋」を渡り本丸土塁をみて内濠の東土橋を渡り三の丸へ戻るというコースです。
何と言っても「三重櫓」がメインですね。
築城当時の櫓は二重の櫓でしたが、寛文地震の後三重の櫓に建て替えられたそうですが
明治3年(1870)に本丸御殿、三重櫓などを焼失。
平成5年(1993)上越市発足20周年記念事業として、焼失した三重櫓を 3重3階の独立式層塔型天守として復興。
まずは南西隅、内堀の噴水と共に
土橋より西面
本丸券売所辺りから、東面
土塁上に築かれた城壁と櫓
ぐるっと一周して極楽橋付近より、内堀越しの南面
内部は木造で資料館となっている
一般310円 小中高生160円(歴史博物館と共通券は割引があります)
休館月曜日、年末年始
開館時間;9:00~17:00
写真は3階展望室
西堀から北堀一帯に繁殖している「蓮」は東洋一と呼ばれ、花の咲く時期には遠くから観光客が集まる。
しかしこれは観光のためではなく、廃藩置県で職が無くなった藩士・氏族たちの収入の糧として堀を使った「レンコン」栽培だったのです。
刀を鎌や鍬に替え、泥沼に胸まで漬かりながら農作業をする元・侍たちの姿を想像すると哀れです。
北西隅プロムナードと紅葉
同西堀の蓮
西堀に架かる赤い「西堀橋」と山並み
「旧陸軍第三十三師団・赤レンガ門」
外堀と内堀の南西側に師団司令部があったそうです。金沢城もそうですが、廃藩置県で廃城になった広大な敷地は軍隊にとって恰好の土地だったのでしょうね。
本丸と南二の丸を繋ぐ内堀に架かる「極楽橋」
平成14年(2002)高田城築城当時の極楽橋が発掘調査の資料をもとに再建されました。
木製の欄干と擬宝珠越しの櫓
極楽橋を渡った本丸南西部に築城当時の土塁が残っています。土塁の高さは10mほどもあるそうです。
本丸南東隅から東側中央部に架かる土橋にかけての土塁。
直線に延びていなくて出っ張りが不思議だったのですが、三重櫓3階に展示してある模型をみて分かりました。
これは搦め手口の「枡形門跡」だったのではないでしょうか。
土塁に残る唯一の石積みの跡
これは築城当時のものなのでしょうか???
隅部は算木済み
二段しか積んでないのだが、、、
とある資料には「保管してある石が高田城にも石垣があったことを示すのではないか、、、」との記述がありました。
これがそうなんでしょうか?
にしては管理が、、、(;^ω^)
今後の調査の結果を見守りたいですね。
「上越市立歴史博物館」
1階はカフェとミュージアムショップ、そして「御城印」は事務所に声掛けしてください。
展示は2階です。学芸員の方から詳しい説明を聞くことができました。福島城の歴史も教えてもらいました。
同館パンフレット
住所;新潟県上越市本城町7-7(高田城址公園内)
電話;025-524-3120
開館時間;10:00~16:00
休館日;月曜日(祝日の場合翌日)
祝日の翌日と年末年始
観覧料金;大人510円、小中学生260円
三重櫓と共通券は割引となります
御城印は1階で販売しています
【高田城】
《天下普請により4ヵ月で築城》
名称(別名);高陽(こうよう)城、螺城(らじょう)、鮫が城(さめがじょう)、関城(せきじょう)
所在地;新潟県上越市本城町7-7
城地種類;平城
築城年代;慶長19年(1614)
築城者;松平忠輝
主な城主;松平氏、酒井氏、松平氏、稲葉氏、松平氏、榊原氏
文化財区分;県指定史跡
近年の主な復元等;三重櫓(再建)
天守の現状、形態;
※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;
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