金の鯱は想像以上に大きい
エレベーターで昇る天守閣。お土産コーナーがあってなんかアミューズメントパークみたい。→こちら
資料も展示してあり、石垣に使う巨石の運搬作業を再現したコーナーもある。
見晴らしは最高、名古屋市内が一望できる。
名古屋城まで来たら是非訪れて欲しいのが「徳川美術館」→こちら
尾張徳川家に伝わる宝物が一元的に保存展示されている。
他の大名家が困窮し先祖伝来の家宝を売却する中、尾張徳川家は財団法人を設立し全てを移管し散逸を免れた。→こちら
【歴代城主】
初代城主 義直(よしなお);
慶弔5年(1600)徳川家康の9男として生まれ、4歳で甲斐の国25万石。1607年尾張の国清洲を譲り受け、13歳で尾張の国領主となる。1614年名古屋城完成に伴い清州から名古屋に移転、名古屋城初代城主となった。
二代城主 光友(みつとも);
光友(みつとも)は義直の長子。三代将軍、家光の長女が光友の正室に迎られ、将軍家と尾張徳川家の結びつきは強固なものになっていた。
三代城主 綱誠(つななり);
綱誠(つななり)は光友の長子で、正室の他に13人の側室がおり、22男18女、なんと40人の子供がいましがその大半は早くに亡くなってしまいました。
小さい頃から頭が良く、聡明な人でしたが家督をついでたった6年で亡くなります。
四代城主 吉通(よしみち);
綱誠の死後は綱誠の十男吉通(よしみち)が家督を継ぎ、四代目の城主になりました。
内政の面でも優れたリーダーであり、尾張柳生新陰流9世を継承した剣豪でもありました。
六代将軍家宣はこの吉通を後継にと考えていましたが、若干25歳で亡くなってしまいます。
五代城主 五郎太(ごろうた);
吉通の長子ですが、幼名のままであることからも分かる通り、家督を継いで2ヶ月後、たった3歳で亡くなってしまったもっとも幼い名古屋城の城主です。
このことで尾張徳川家の直系は途絶えてしまいました。
六代城主 継友(つぐとも);
子沢山の三代城主、綱誠の十一男の継友(つぐとも)が六代目です。
尾張徳川家の財政立て直しに成果をあげました。
継友も将軍候補に上がるのですが、結局は徳川吉宗が八代将軍になりました。
七代城主 宗春(むねはる);
この宗春(むねはる)も子沢山の綱誠の二十男です。
「暴れん坊将軍」がお好きな方ならご存知かもしれません。
というのも宗春(むねはる)は八代将軍吉宗の、緊縮財政を良しとする享保の改革に「身の丈にあった遊びは必要」とし、真っ向から反対した人物なので物語の中では吉宗の仇役として描かれていることもあるのです。
実際には遊び心のあるファッションリーダーで、祭りを催しては庶民を喜ばせ、社会的弱者も大切にした名君でした。
しかしついに吉宗から隠居を命じられてしまいました。
八代城主 宗勝(むねかつ);
宗春の隠居後に分家の高須松平家から迎えられたのが八代当主の宗勝(むねかつ)です。
尾張徳川の財政が逼迫していたこともあり、宗春の政策を一掃して吉宗の享保の改革に則っとる政策で財政を再建させました。
もともと低身分の家で育てられた宗勝だったので、お金に苦労した経験もあり倹約には積極的だったようです。
カリスマ性のあった宗春に隠れてはいますが、財政を立て直した手腕は大変なものでした。
九代城主 宗陸(むねちか);
宗陸(むねちか)は宗勝の次男です。
父が立て直した財政を維持しながらも新田開発などで成功し、役人の不正を正すために藩政を改革したり、または学校を創設したりと様々な面で改革をしました。
しかし皮肉にも改革のしすぎで財政が再び赤字になってしまいました。
しかし残したものは大きく、宗陸は「中興の名君」と称されています。
また宗陸は寛政の改革でも相談役として政策決定に関与しました。
十代城主 斉朝(なりとも);
十一代将軍、徳川家斉(いえなり)の甥っ子、斉朝(なりとも)が宗勝の養子となって十代当主を継いで名古屋城に入ったので、この時点で尾張徳川家の血統は断絶しました。
宗勝ほどは優秀でなく、名古屋城の庭園を改造してみたり、新御殿を建ててみたりと浪費を重ね、再び尾張徳川家の財政は逼迫してしまいました。
本人は35歳の若さでさっさと隠居してしまいました。
十一代城主 斉温(なりはる);
35歳で隠居した斉朝に変わって養子の斉温(なりはる)が十一代当主になりますが、幼かったこともあって21歳でなくなるまで尾張藩に足を踏み入れることはありませんでした。
唯一名古屋城に居城しなかった城主です。
城主でありながら一度も名古屋城に住まなかったことが大いに家臣たちの士気を下げました。
十二代城主 斉荘(なりたか);
先代の斉温は病弱で子供がいなかったので、藩内で後継争いになりましたが、斉温の異母兄弟の斉荘(なりたか)が家督を継ぐことになりました。
しかし斉荘は財政が厳しいにもかかわらず、藩政にはあまり積極的でわありませんでした。
それどころか裏千家の茶の湯にかまけ、倹約令も無視して遊びに夢中でした。
十三代城主 慶臧(よしつぐ):
斉荘の娘と婚約し、田川徳川家から養子になって十三代当主になったのが慶臧(よしつぐ)です。
将軍家の周りから四代も続けて養子をとったので、そもそもの城主、初代義直(よしなお)の血統が全く無視されているとして家臣たちは不満が募っていました。
しかしこの十三代城主の慶臧は10歳で家督を継ぎ、14歳で天然痘のため亡くなってしまいました。
十四代城主 慶勝(よしかつ);
慶臧の死後、尾張徳川家から当主を出したい家臣と将軍家の周りから養子をとって将軍家との結びつきを維持しておきたい重臣の間で激しい対立が起こりました。
そこで十四代当主に迎えられたのが尾張藩の支藩である高須藩から養子にとった慶勝(よしかつ)です。
家臣たちの願いが叶う結果でした。
慶勝(よしかつ)は御三家の一つ、水戸徳川家の血も引いていることもあり、尾張徳川の家祖、義直が主張した尊王攘夷の意思を継ぐ城主でした。
このとき時代は明治維新の頃なので十四代城主、慶勝は幕末の尾張藩主です。
のちに安政の大獄によって隠居謹慎させられてしまいます。
十五代城主 茂徳(もちなが);
次に家督を継いだのが慶勝の弟、茂徳(もちなが)です。
慶勝、茂徳(もちなが)の兄弟たちは大変優秀な人ばかりで皆名家に入り家督を継ぎました。、、、(高須3兄弟、容保は会津城主)
安政の大獄で隠居させられた兄の慶勝が、桜田門外の変で井伊直弼の暗殺により復帰できる見通しがついたため、兄の息子の義宣(よしのり)に家督を譲ります。
のちに徳川慶喜に代わって一橋家の当主を継いだことからも優秀な人物だったことがわかります。
十六代城主 義宣(よしのり)
義宣(よしのり)はまだ6歳だったので、実際の藩政は父であり、隠居から政治に復活した十四代城主の慶勝が行なっていました。
義宣自身は藩政に携わらないまま18歳で早世してしまいます。
十七代城主 慶勝(よしかつ);
息子の義宣の死後は再び十四代城主の慶勝(よしかつ)が城主になります。
明治維新の1870年、明治3年に慶勝は名古屋城を壊し、金のシャチホコを武士が帰農する際の手当にしてはと新政府に申し出ます。
しかし名古屋城は姫路城とともにそのまま保存されることが決まり、主なきまま今日も姿を留めています。
【遂に将軍を輩出できなかった尾張徳川家】
立派な城主がいながらも将軍が一人も出なかったことでも知られる尾張徳川家。
少々お堅い家風は戦国の後継争いにはいささか真面目すぎたのではとも言われています。
、、、以上出典「終活ネット」→こちら
【シンプルながら鉄壁の守りの縄張りが残る】
名古屋城が築かれた地はもともと「那古野」と呼ばれており、今川氏の支城があった。ここに徳川家康が慶長15年(1610)九男義直の尾張藩の居城として築城することを決め、元豊臣方の大名らに大々的な天下普請を命じ、慶長19年(1614)完成した。名古屋城の築城は大阪城の豊臣秀頼をけん制する意図があり、広大な縄張りに大天守、小天守を中心に多くの多聞櫓と櫓を建て並べた最大級の要塞が完成した。五重の大天守には金の鯱が載って評判となり「尾張名古屋は城でもつ」と謳われるまでになった。明治になって取り壊されそうになったが、ドイツ公使の働きかけにより保存されることになった。しかし惜しくも戦災によって焼失。天守は昭和34年(1959)鉄筋コンクリート造りで再建され、平成21年から本丸御殿の復元工事が始まった。
【名古屋城】
《徳川氏が西を睨んで築いた東海の巨城》
名称(別名);金城、金鯱城、亀尾城他
所在地;名古屋市中区本丸1-1
城地種類;平山城
築城年代;慶長15年(1610)
築城者;徳川家康
主な城主;徳川氏
文化財区分;国指定特別史跡、国指定名勝、重要文化財
近年の主な復元等;本丸御殿復元
天守の現状、形態;層塔型、五重七階地下一階、鉄筋コンクリート造り(再建)
地図;
※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
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