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穴水城跡
天正6年(1578)長連龍宛て、柴田勝家書状の「穴水城」が文字の初見。「長家家譜」によれば八代正連から二十一代長連龍まで約200年余りの長家の居城として知られる。
天正4年(1576)より同8年(1580)にかけて幾度か穴水城の攻略奪回が繰り返されたが、同9年(1581)に前田利家が能登に入封し支配権が及ぶ中、領内は安定し、同11年(1583)まで穴水城の存在が確認できるが、その後、時代的役目を終え、まもなく廃城となった。穴水町、、、現地説明板より
場所は石川県鳳至郡穴水町川島
のと里山海道「穴水IC」下車、県道1号線から穴水市内に入り、「金比羅」交差点で国道249号線へ右折します。その先の「小又川」を渡り、「役場前」交差点で左折し再び「小又川」を渡ると「穴水町役場」に突き当たります。橋詰で右折し川沿いに進むと左手に「穴水町歴史民俗資料館」と「長谷部神社」鳥居が見えてきます。
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ここは徒歩で登る「神社口ルート」(徒歩15分)の起点でもあります。
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ここから城址公園までの道案内マップが資料館でもらえますよ(^^♪
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自分は道案内のマップを見ても迷子になりました(;^ω^)
間違ったポイントは「バス停の角を左折」するところでした。これが分かりにくかったんですよ~💦
「穴水高校口バス停」の事で、坂道の住宅街の途中にあります。
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林道みたいな山道を登っていくと、終点が穴水城址公園駐車場です。
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駐車場には立派な城址碑と現地説明板が建っています。
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ここは既に城郭の一部で、主郭の直下に駐車場が造成されているという状況です。
駐車場から主郭への登り口
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ここで当日の行程を縄張り図で示します。
佐伯先生著、能登中世城郭図面集より(ブログ管理者加筆)
主郭(図中A郭)は頂上部の東西に楕円形に削平され、東側斜面には段郭が築かれ、南側には二の丸・三の丸が、また東側には一番広い曲輪(図中B郭)が築かれている。
さらに東側にはB郭を見下ろすように階段状に曲輪が連なる。
主な防御施設は東側(現在の城址公園車道方向)に集中しており、北東尾根や南東尾根からの敵の侵入を想定した守りとなっています。
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「伝本丸」(図中A郭)
虎口
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高台に登ると平坦地が広がる。
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伝本丸案内看板
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西端の削平地には、現在お墓が建立されています。
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同切岸(下段の曲輪方向より)
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西端から下段の曲輪方向
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西端から一旦駐車場に戻り、伝本丸下の帯曲輪的な通路を南東から西に向かって進みます。
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「伝三の丸」
案内看板
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削平地
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伝三の丸からの眺望
西に開けた斜面からは穴水市街が一望できる。
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小又川から穴水湾にかけて、
水上交通の要衝だったことが偲ばれ、穴水港を監視する目的で築城されたことが分かる。
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伝三の丸から北に向かって草むらの中を突き進みます。
方向としては伝本丸西端の下にある曲輪を目指しているハズ(;^ω^)
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途中「役場口ルート」(徒歩5分)の案内看板がありましたが、藪に包まれ判読できない状況です。少し分け入ってみますと、木立で日差しが遮られた辺りは遊歩道がハッキリわかりました。
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その先には階段状に曲輪が連なっていました。
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そこから段差を乗り越え上段に登ると、主郭のお墓がある少し東側にたどり着きました。
「B郭」
伝本丸案内看板のある北側から、下段の曲輪に降りてみました。
広大な面積を持つ曲輪ですが、現状は藪です。
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一旦駐車場に戻り自動車道路を北上
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B郭東側からの全景です。
穴水町による発掘調査の結果、生活用品が出土しており城主一族の居住空間だったと考えられています。
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「北東段郭」
城址自動車道路を北上するとB郭の上段、東斜面に段郭があります。
現状は農業資材の小屋が建っていました。
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その奥には耕作地が点在しています。
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同
曲輪なのか近年削平された耕作地なのか区別が付きません
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上段の曲輪切岸
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同削平地
ここは曲輪だったようです。
これらの段郭は大手道、大手虎口と直接接続しており最前線の防衛拠点だったと考えられています。
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再び城址自動車道路に戻り城域東尾根の堀切を探しました。
堀切
自動車道路わきの藪の中に切り込みを見つけることができました。
城域の東端尾根を切断する堀切跡です。
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堀切の先自動車道路の分岐点
北尾根と東尾根の分岐には現在「健康のみち」の案内看板が建っています。
北尾根と城域の東端を守る郭があったと考えられています。
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その向かいにある曲輪
東尾根からの敵の侵入に対応する曲輪があった場所と考えられています。
どちらも自動車道路に面しています。
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最後に北尾根の未舗装道路に進んでみました。
ここには北尾根を切断する堀切があるハズです。
北尾根には城域に向かって谷が開いており、その谷の自然地形を巧みに生かして堀切から横堀に利用しているのではないかと感じました。
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その先は放送中継所のような施設があり、そこで折り返しました。
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ー・ー・ー〔いしかわ城郭カード〕ー・ー・ー
【穴水城】
《穴水港を望む長氏代々の居城》
所在地;石川県鳳至郡穴水町川島
名称(別名);あなみずじょう(白波城)
城地種類;山城
標高/比高;62m/-m
主な遺構;曲輪・土塁・堀・虎口
規模;550m×450m
主な城主;長氏長沢筑前守光国・白小田善兵衛(上杉謙信家臣)・前田利家
時期;南北朝・室町・戦国
文化財区分;町指定史跡
地図;
登城に先立ち、
長家の始祖を祀る長谷部神社に参拝
長家の史料を保管展示している穴水町歴史民俗資料館を訪問
「図録長家史料」を購入しました。
長家の歴史を要約すると以下のようになります。
●長氏の始祖長谷部信連は源平争乱の時代を生き抜き鎌倉御家人に列し、安芸国の検非違使に任じられ所領を得た。やがて信連は能登国大屋庄の地頭職に任じられ能登長氏の礎を築いた。
●鎌倉御家人長氏一門は幕府滅亡、南北朝の動乱の中分裂の危機にあった。
●室町幕府体制の確立後、能登長氏は足利将軍家の奉公衆に列して、能登守護畠山氏の支配から独立的な位置にあった。
●室町幕府体制崩壊による戦国動乱期には、戦国大名化する能登畠山氏の配下に次第に組み込まれるようになり、戦国中期には長続連が畠山氏の重臣となる。
●戦国大名能登畠山氏の権力失墜に伴う重臣七人衆による領国支配体制のなか、外様である長氏が重臣になった背景には、奥能登への関門となる穴水城を中心とした経済力と、周辺小領主層をまとめ上げた強力な軍事力があった。しかし、畠山家臣団内部において譜代の重臣遊佐氏・温井氏らと競合していった。
●天正5年(1577)9月15日上杉謙信による七尾城陥落は長氏一族の殺害をもって終結するが、謙信の能登における最大の標的が織田信長と提携し、畠山家の内部で権力を誇る長氏一派であった。
●長谷部信連から数えて二十一代目の長連龍は、天正8年(1580)9月織田信長から鹿島半郡の領有を認められ、後の加賀藩八家に列する基盤を築いた長家中興の祖である。
織田信長に援軍要請のため安土城を訪れていた長連龍が唯一生き残り、天正6年(1578)8月、羽咋郡富木に入り穴水城を奪還したものの、上杉勢や遊佐・温井・三宅勢に攻撃され、石動山を越え越中氷見に逃れた。以後織田政権の能登攻略に参陣することで父兄の仇討も実現させていく。天正9年(1581)に前田利家が能登に入封してからはその与力大名として活躍、前田氏のもとに重要な地位を確保するに至った。
●前田氏が加・越・能三国に覇権を確立する過程における長連龍・好連父子の戦功は、能登生え抜きの豪族である長家を、加賀藩家臣団中の旧勲名家として定着させ、好連は鹿島半郡三万一千石と能登・加賀の二千石、計三万三千石を宛行れ利家の娘を妻とした。
●独自の領地支配を警戒する加賀藩三代利常により、鹿島半郡を強制的に領地替えで失った長家は藩政に組み込まれ名実ともに加賀藩の家臣となって行った。
●この後も引き続き長家は三万三千石を宛行われ年寄りとして藩政の要に位置し、八家の序次が定められた際には、本多家(五万石)に次ぐ位置に置かれ、長連龍以降十一代にわたり加賀藩の重責を務め幕末を迎えた。
【穴水町歴史民俗資料館】
住所;石川県鳳至郡穴水町字川島ラの197の15
開館時間;4月1日〜10月31日、8:30~17:00
11月1日〜3月31日、9:00~17:00
休館日;月曜日・国民の祝日・年末年始
入館料金;大人100円
地図: