「逆転のトライアングル」(22年・スウェーデン・独・仏・英)
監督 リューベン・オストレンド
前半冗長で後半の内容が薄すぎる
(以下、ネタばらし有り)
インフルエンサー兼モデルのヤヤ(チャールビ・ディーン)が同じくモデルで恋人のカール(ハリイ・ディキンソン)と共に小型豪華客船のクルージングに招待される。他の客は全て各国の富豪たちである。ロシアの肥料メーカー夫妻、イギリスの兵器産業オーナー夫妻と都合で一人参加になった男が簡単なエピソードとともに紹介され、クルーが金のために客の無理難題にも応えなければならないと定められた状況が描かれる。しかし、ここまでに特に面白いことはなく、長すぎる人物紹介と言った感じである。
アル中の船長が職務放棄状態のため、キャプテンズディナーが嵐の日にぶつかり、ディナーの最中に段々と皆が苦しみだしてあちこちで嘔吐が始まる。トイレも逆流で排泄物を噴出し、船内の惨状が長々と描かれる。さらに、ようやく嵐が収まった時、小型ボートで接近してきたテロリストによって爆破され沈没してしまう。(映画紹介では「海賊」となっているが、海賊なら爆破してパーにするはずはない)。ヤヤたち8人のみが無人島に漂着し、密閉型救命ボートも流れ着いたので多少の水と菓子類を得る。ここから無人島生活となるが、手づかみで魚を捕り火を熾すことができるトイレ清掃係のアビゲイル(ドリー・デ・レオン)が支配者として君臨することになる。これが立場の逆転である。
ここまでは予告編で描かれている話で、ここから立場の逆転に伴う様々な出来事が、前半の話と対比するかのように描かれるのかと期待させるが、どう見ても無内容な無人島生活でしかない。大きくペースが割かれるのは、アビゲイルがカールのみに自分と共にボート内で寝ることを許し、食べ物と引き換えにセックスの奉仕をさせる話である。ヤヤを含めて一種の三角関係状態となるが、ヤヤが島の地形と食料調査に行くと言い出し、アビゲイルも話をしたいと同行することになる。それにしても地形調査や水・食料調達のための探索は無人島生活で最初にとりかかるべき話であろうが、男たち全員何も行動を起こさないのは、あまりに不自然である。唯一やったことは、浜に無防備に近づいてきた鹿を石で撲殺しただけである。生き抜くための危機感は全く見られない。
結局、ヤヤとアビゲイルが別の浜でリゾート施設のエレベーターを発見し、ここが無人島ではなかったというオチになるのだが、そうするとアビゲイルは元の立場に戻ってしまうので、このことを隠すためにヤヤを石で後ろから撲殺しようと迷うところで終わりである。カールが草むらの中を疾走しているのが最後の場面なので、何かが起こったことは間違いないのだろうし、この終わり方自体はちょっと面白い。
それにしても、前半の冗長さはひどい。ヤヤとカールがレストランの支払いをどっちが持つかで延々と言い合うのだが、全く面白くはなくうんざりさせられるだけである。さらに、冒頭で意味ありげに描かれる男性モデルのオーディションシーンなど完全に無意味で不要であろう。どちらも後半の話とは何のつながりも無いものである。また、嵐の中での船内の惨状をよそに、酔っ払った船長とロシアの富豪が延々と共産主義についての蘊蓄を戦わせるが、これを含めて船内のエピソードもあまり面白くはない。唯一笑ったのが、「私たちは地雷を禁止されて大変だったが二人で協力して乗り切った」と自慢していた兵器産業オーナー夫妻が、ボートから投げ込まれた手りゅう弾を手に取って「うちの品物じゃないかしら」と言った直後に爆発するというシーンである。とにかく冗長な前半に対して無人島での内容が薄すぎる作品である。
総合評価 ② [ 評価基準(⑥まれにみる大傑作)⑤傑作 ④かなり面白い ③十分観られる ②観ても良いがあまり面白くはない ①金返せ (0 論外。物投げろ)]
「ザ・メニュー」(2022年・米国)
監督 マーク・マイロッド
全く説得力の無い結末
(以下、ネタばらし有り)
太平洋の孤島をそのままレストランとして、有名シェフ(レイフ・ファインズ)が提供する料理はなかなか予約が取れないことで有名である。運良く予約が取れて集まった11人のお客たちが殺されてしまうという不条理劇である。
期待に胸を躍らせる客たちに対して、シェフの言動がだんだんと不穏な空気を醸し出していくという展開は、どうなるのだろうと興味を惹きつける。そしてシェフに紹介された副料理長が、皆の目前でいきなりピストル自殺してしまうところから、一気に異常な世界に突入する。シェフの言葉からどうやら最後は、従業員ともども全員が死んでしまうのだということが察せられる。しかしなぜそうするのかという説明は全くなく、確かにお客たちはそれぞれ後ろめたい事情をかかえていて、それをシェフたちに握られているらしいのだが、それが理由で殺されると言うわけでもないようである。また、過去の推理小説にあるように全員が何かの事件に関連して恨みを買っているということでも、もちろんない。お客の中には過去10回以上来たことがある常連ともいえる者もおり、今回に限ってこのよう展開になるのかという説明も無く、全く理由不明である。
さらに、シェフの指導で熱心に料理の修業をしているらしいコックやその他の従業員も全員死ぬ覚悟なのだが、その説明も全くなく、しかし、それはそれで不条理劇の大前提・大枠として提示されていると考えれば確かにそういう設定はあり得る。であればなおさら、その設定に対してお客たちがどう反応し抵抗し、頭を使って生き延びようかとするのかを興味深く描くことで話が成り立ちうるはずである。ところがお客たちは完全にシェフの支配に飲み込まれ、時々衝動的に反抗して無駄を悟るのみである。そこには何の工夫もひねりもない。最後は従業員たちが部屋中にガソリンをまいて島全体が爆発炎上するのだが相変わらずお客たちはパニックにもならずそれを受け入れるのみである。ここに至って観客はあきれ返るのみであろう。お客の中で、ただ一人他人の当選を譲ってもらって参加しているマーゴ(アニャ・テイラー=ジョイ)だけが、最初からシェフが述べるしょうもない蘊蓄や権威に支配されず、つまらないものばかり出されて腹が減っていると申し出てチーズバーガーが食べたいと言う。そしてそれを作ってもらって食べ、一人のみ島からの脱出を許可されるのだが、これもシェフが場違いな人間として排除したかのように見えるがやはりはっきりはしない。
また、中途、シェフから45秒の時間を与えられ逃げたお客男性全員が捕まえられるが、ただ連れ戻されるだけで何の処罰もない。またマギーがシェフの居宅に忍び込んで無線機を見つけて連絡し、駆け付けた警官が単なるグルであったなどというのもとってつけたような無意味な話である。また、それぞれのメニューとストーリーにも何の関連もない。
最初はどうなることかと期待させたが最後まで見て考えてみると、どんどんと腹立ちか募る映画である。
総合評価 ② [ 評価基準(⑥まれにみる大傑作)⑤傑作 ④かなり面白い ③十分観られる ②観ても良いがあまり面白くはない ①金返せ (0 論外。物投げろ)
シネマ独断寸評 やっぱり言わせろ
「地下室のヘンな穴」(2022年・仏・ベルギー)
監督 カンタン・デュビュー
奇抜な設定のみで深みはない
(以下、ネタばらし有り)
アラン(アラン・シャバ)とマリー(レア・ドリュッケール)の夫妻が、地下室に不思議な穴があるという新居を購入したことから始まるSF的な設定のコメディ。その穴からハシゴで下に降りるとその住居の2階の部屋に出るのだが、時間は12時間後となっており、体は3日間若返るというものだ。そこからさらに色々とヘンな現象が起こるのかと期待したが、結局ヘンなのはそのことだけで、それを前提とした話が進む。
12時間というタイムトラベルだが、タイムトラベルに付き物の問題提起は一切無い。例えば、12時間後の情報(競馬の勝ち馬など)を持って現在の世界に戻り、使うことができるのかという初歩的な問題等。また、12時間後の世界にそのまま居続けたら、その建物に地下室はなく、上に行くハシゴガ有ったりするのか、といった疑問は一切出てこない。アランは地下室に全く興味を示さないように見え、マリーが12時間後のことは捨象して3日間若返るという点にのみ執着してどんどん若返ろうと穴への出入りを繰り返す。その過程での2人の軋轢が描かれるのだが、結局マリーは二十代まで若返るのだが精神のバランスを崩してしまう、という結末である。
一方で、アランの友人でありアランが働く会社の社長でもあるジェラールは、ペニスを電子ペニスという人工物に取り換えて、コントローラーで自在に動かせると誇らしげに打ち明ける。しかし余りにも無理な設定であり、そのことに付随して当然考えられる様々な問題は一切不問のままで、単に電子ペニスの故障と修理が問題として展開するだけで、そのうち発火してしまい運転中のため事故死してしまうという結末で、さほど面白くもなんともない。地下室の穴の件だけでは、やはり弱いと思って無理やり付けたテーマなのか。
結局、設定だけは奇抜で興味を惹くが、期待したような不条理な展開は全くなく、設定以上の深みや面白さはない、という出来だ。ただ、俳優がいずれも自然な演技で、いろいろな会話も飽きさせないので見続けることはできる。
唐突に、昔、「マルコヴィッチの穴」という秀作があったのを思い出した。
総合評価 ③ [ 評価基準: (⑥まれにみる大傑作)⑤傑作 ④かなり面白い ③十分観られる ②観ても良いがあまり面白くはない ①金返せ (0 論外。物投げろ)]
「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」(2020年・日本)
監督 豊島圭介
芥正彦が捻じ曲げた討論会
封切り時に映画館で見てもうひとつピンとこなかったが、今回、テレビの字幕付きで見ることができたので改めて考えてみた。1969年5月に東大駒場900番教室で行われた三島由紀夫対東大全共闘の討論会を記録したドキュメンタリーである。共に現実社会で激しく活動している右翼と左翼の討論ということで大きな興味を惹いたものであるが、あまりに観念的なやり取りに終始してしまっている。
天皇主義者を自認する三島の天皇とは、三島本人も認め解説者たちも言うように、現実の天皇ではなく彼のイマージュ、政治的表象としての天皇である。それならば三島は現実の天皇に対して、どのようにか異議申し立てをすべきであり、また天皇を祭りたてる保守体制に対して何らかの反対運動をすべきではないのか。そこをあいまいにしたままで、「盾の会」だの自衛隊体験入隊だのというパフォーマンスをやっているだけで結局、現実的には保守権力体制の補完物になってしまっているのが実情だ。であるならば、殊に運動体としての全共闘に対しては、三島の観念をこの現実に引きずり出しての討論が求められたはずであり、それを期待したのであるが、この点では全くの肩透かしであった。
一つの原因としては、前半の大半を占める芥正彦と三島の観念論のやり取りが延々と続いたことがあげられる。考えながら見てみたが芥の言う内容は、やはり半分以上理解不能である。特に三島がしつこく問題にしている解放区の持続時間ということについて、これは納得できる問題提起と思えるのだが、「解放区には関係づけも時間もない」と繰り返す芥の論は全く意味不明である。彼はそれらを演劇論・芸術論・哲学論として展開しており、彼自身の全共闘運動もそのための手段としてとらえているようなのだが、現実の全共闘は必ずしもそういったものではないであろう。その芥が全共闘随一の論客と見なされて討論の主要な時間を占めていることが、この討論会を多くの人が考えたであろう内容から捻じ曲げてしまっているのである。芥の議論は有用なものであるとしても、この討論会ではなく哲学教室等で行うべきものであろう。哲学論には疎い私だけではなく、1000人の全共闘聴衆の大半も理解できなかったろうと推測するが、1人のみ芥に「実在的社会的諸関係を捨象した観念論ばかり言うな」と反論しただけで、それも非常に中途半端でしかない。その他の聴衆は芥の滔々と述べる理論を正面から受け止めて一つ一つに反論することができないが故に沈黙してしまっているのである。プライドが邪魔するのか、「お前の言うことは判らん」と言って切り捨てて現実の問題に立ち返ることがなぜできなかったのか。
また、本質を抜きにして「諸君が一言天皇と言ってくれれば共闘した」という三島の一種の詭弁に対して、聴衆の一人が天皇という言葉を使っただけで、「今、天皇と言ったから共闘してくれますか」などとあまりに稚拙な詭弁で迫ったのはちょっと情けない。
複数の解説者も言っているように、全体として、三島の真摯で包容力のある態度とユーモアを解する人間性が、やや予想外で好ましい印象を残した。彼の、現実との対決を曖昧にしたまま続けたパフォーマンスの決着の付け方が、あのような割腹でしかなかったのはそれなりにうなづける話である。
総合評価 ③ [ 評価基準(⑥まれにみる大傑作)⑤傑作 ④かなり面白い ③十分観られる ②観ても良いがあまり面白くはない ①金返せ (0 論外。物投げろ)]
「逃げた女」(2020年・韓国)
監督 ホン・サンス
驚くほど無内容な駄作
(以下、ネタばらし有り)
主人公の女性ガミ(キム・ミニ)が久々に3人の友人女性を訪ね歩いて、だらだらと面白くもない雑談をするというだけの話。
最初は離婚してソウル郊外の住宅を買ったという先輩だが、久しぶりに会ったらいしややぎこちない挨拶から始まり、同居中の若い女性も交えてどこまでいっても他愛ないとしか言いようのない会話がだらだら続くだけである。途中、野良猫への餌やりに苦情を言いに来た隣人とのやり取りがちょっと挟まるがただそれだけである。いい加減退屈したところで二人目に移り、高級マンションを賃貸している先輩である。同様の会話が続き、途中、近所の居酒屋で知り合って一度寝てしまった若い男が
会いに来たのを先輩が玄関先で追い返すというシーンが挟まるだけである。三人目は学生時代の友人らしく、現在は映画監督と結婚しており、その夫とガミが昔、関係があったらしいことが友人の「ガミに謝りたい」というセリフなどから分かる。場所はその監督の映画を上映中のサイン会会場であり、ガミは庭の喫煙所で監督と顔を合わす。当然ながらぎこちない挨拶が交わされ、ここからようやく何かが始まるのかとも思わせるが、表面的な会話が少しあってそのまま別れ、それでお終いである。
大きな意味のないような会話の連続でも、ユーモアにあふれていたり、興味深い含蓄が有ったり、新鮮な視点が有ったりで惹きつける映画もあるが、最初から最後まで挨拶とそれに続く他愛ない会話があるだけで全く面白くもなんともない。ガミは三人に対してそれぞれ「結婚してから5年間、一日も夫と離れたことがなく、今回が夫の出張により一人になった初めてのことだ」と説明する。ここから何か意味を考えようとしたり、それぞれの会話から揺れる女ごころの機微を読み取ろうとする人もいるようだが、単に宣伝文句がそう言っているのみで、とてもそんな内容ではない。いかなる劇中会話にても心の機微を含んでいるのは当たり前であり、ここまで無内容なものを提示してそんなことを言うのは厚かましい限りである。ベルリン映画祭で何か賞をもらったとのことだが、全くの駄作と言ってよい。
総合評価 ① [ 評価基準: (⑥まれにみる大傑作)⑤傑作 ④かなり面白い ③十分観られる ②観ても良いがあまり面白くはない ①金返せ (0 論外。物投げろ)]
「ベルエポックでもう一度」(2019年・仏)
監督 ニコラ・ブドス
再現シーンの虚実が秀逸
デジタル化された社会で仕事を失ったかつての売れっ子イラストレーター、ヴィクトル(ダニエル・オートゥイユ)は、妻にも愛想をつかされ冴えない日々を送っていた。元気づけようと息子がプレゼントしてくれたタイムトラベルサービスを試してみると、すっかり気に入ってはまってしまう。それは監督アントワーヌ(ギヨーム・カネ)が客との細かい打合せを基に、希望の時代と場面をセットと俳優により再現する体験型エンターテイメントサービスだ。
ヴィクトルの希望は1974年リヨンの酒場「ベルエボック」で妻と出会ったシーンの再現だが、写真や時代考証により上手に再現された当時の背景や登場人物のファッションや言動が生きている。当時交わされた会話の再現につまづいた俳優には天井裏から見ているアントワーヌがイヤホンを通して指示を送るが、当然ながら完全にはできず俳優のアドリブも交えて進んでいく。その過程を、芝居と承知しつつ楽しんでいるヴィクトルだが、時に自分自身その中に入り込んでつい虚実混同してしまうのが笑わせる。その加減が違和感なく大変うまくできている。当時の妻役の女優マルゴ(ドリア・ティリエ)に対しても大いに気に入って、妻役としてではなく実際の女優に対してものめり込んでゆき、別荘を売って延長を申し込む。一方で、アントワーヌとマルゴの現実の恋愛関係のやり取りも並行して描かれ二つが入り混じって進む過程が面白い
再現シーンを盛り上げるために、若い日の自分が父親と和解するシーンを再現する別の客も登場したり、しかしそれにも裏が有ったり、のめり込んでゆくヴィクトルに対して二重三重に対応する仕掛けが大いに楽しめた。この手の設定だと、ともすれば見え見えのお芝居を演出して客を惹きつけたことにして、子供だましのように感じて白けてしまうということがよくあるのだが、細部まで練られていることで無理な押し付けを感じずに楽しめる出来となっている。また逆に、タイムトラベルは単なるだしのようになって、現実の人間関係の進展に重きが置かれる作品もあるが、そういうものでもない。そのあたりの加減が非常によくできている作品である。
フランスで大ヒットしたとのことだが、当時のシーンを再現として見ることが観客にノスタルジーを呼ぶ大きな効果となっていることも理由の一つだろう。
総合評価 ④ [ 評価基準:(⑥まれにみる大傑作)⑤傑作 ④かなり面白い ③十分観られる ②観ても良いがあまり面白くはない ①金返せ (0 論外。物投げろ)]
「パブリック 図書館の奇跡」(2018年・米国)
監督 エミリオ・エステヴェス
問題提起は良いが話はイマイチ
(以下、ネタばらし有り)
大寒波襲来の米オハイオ州の図書館に、避難場所を求めてホームレスたちが立てこもるという事件を描いた映画。冒頭で、朝の開館を待って列をなしたホームレスたちが図書館のトイレで洗面髭剃り等を行い、職員とも親しく会話するシーンが描かれ、日本と違ってホームレスにとって図書館が大きな位置づけをされていることが判る。
凍死者も出るほどの大寒波の中、市が用意した「シェルター」というザコ寝場所もいっぱいのため、図書館で夜を明かすのだとして押し掛けた数十人のホームレスたちによって図書館が占拠される。初めは戸惑った図書館員のスチュアート・グッドソン(エミリオ・エステヴェス)も、事態の深刻性を理解し図書館の「公共性」という役割からホームレスたちに協力することを選ぶ。実際、米国図書館協会の報告書に寄れば、アメリカの図書館は単なる「本がある場所」ではなく、社会的なライフラインとして生活の広い範囲にわたって社会的弱者支援し、利用者の知的欲求に応えるサービスやプログラムを提供しようとするものだとのことである。
一方で、不法占拠として彼らを排除しようとする検察官ジョシュ・デイヴィス(クリスチャン・スレイター)や、聞きつけて駆け付け大きな事件にしたがるテレビキャスターたちによって、スチュアートが大勢の人質を取って立て籠もっているかのような話にされたりする。市長選に立候補予定のデイヴィスは、派手な人質事件にして突入し自らを目立たせたいのだが、その描かれ方はあまりに類型的である。もっとも、トランプのような大統領もいることだし、ありえない人物ではないのだろう。しかし、腕利きの交渉人として警察署長からも信頼されているビル・ラムステッド(アレック・ボールドウィン)が、ろくに交渉らしい交渉もせず警官の突入に同意してしまうというのは、明らかにおかしい。夜が明ければホームレスたちが退去する可能性は高く、それを電話で確認もできるはずなのに。人質なるものに差し迫った危険があるわけでもなく、法の支配を強調したければ夜が明けて出てきたところを検挙すればよいであろう。
また多くの人が違和感を持ったと予想されるが、全員が裸になって出てくるというラストに何の意味があるのだろうか。単に見る者の意表を突くためだけの仕上げに思える。しかも猛烈な寒波の中で裸になって、誰も寒そうに見えない。
スチュアートや同僚、図書館長が、図書館の理念に則ってホームレスの側に立ち、図書館長の「図書館は民主主義の最後の砦だ」と言う姿にパブリック(公共)の意味が問われている。またホームレスたちも、「従軍もして国に貢献したし、まじめに働いていたのに失業しただけでこのありさまだ」として「今回は引き下がるつもりは無い」と声を上げることで、普段みんなが見ないことにしているかのような社会矛盾を告発している。そういう問題提起が大きな意味を持つ映画だが、ストーリーはもうちょっと何とかならなかったか、と残念である。
総合評価 ③ [評価基準: (⑥まれにみる大傑作)⑤傑作 ④かなり面白い ③十分観られる ②観ても良いがあまり面白くはない ①金返せ (0 論外。物投げろ)]
「コリーニ事件」(2019年・独)
監督 マルコ・クロイツバイントナー
ナチス犯罪への対処をめぐる法廷もの
(以下、ネタばらし有り)
新米弁護士カスバー・ライネン(エリアス・ムバレク)は、殺人で拘留されたコリーニ(フランコ・ネロ)の国選弁護人となるが、被害者はライネンの若き日の恩人であった富豪のハンス・マイヤーであることがわかる。そしてコリーニは黙秘したままでその動機も背景もわからない、という状況の中で事件の解明を目指すライネンの活動が始まる。しかし、冒頭から出てくる「謀殺」「故殺」の違いが何の説明もないのでよく判らない。後で調べると、どちらも故意に殺すことには変わりないが、謀殺は「あらかじめ計画して人を殺すこと」または一歩進めて「動機や方法、態様が特に高い非難に値するもの」であり、故殺は「一時の激情によって人を殺すこと」であるとのこと。諸外国には多くあるとのことだが、現在の日本国刑法にはこの区別はないので聞きなれず余計に判りにくいのだろう。しかし、中盤でライネンがコリーニに言う「このままだと謀殺とみなされて終身刑だが、自ら語ればおそらく7年の刑、模範囚なら3,4年で出られる」というのはドイツにおいて本当だろうか、と疑わしく思える。特に、この時点ではライネンは事件の真相に気づいていないので、明らかに先走った脚本のミスであろうが。
前半は、ライネンが手掛かりを得られず、旧知の被害者遺族を訪ねる邪道ともいえる捜査のみで、なぜコリーニの経歴等当たらないのかといぶかしく思えたり、また過去の回想シーンが多用され、進展の無さにちょっと退屈する。後半になって、どうやらカギはコリーニの出身地イタリアが絡み、1944年の事件ということで、ナチス関係ということが判ってくる。マイヤーがナチス親衛隊員であったことも暴露され、そうすると、予想通り動機は当時の虐殺事件の復讐ということが明らかになり、コリーニも法廷でそのことを陳述するに至る。
そこから、被害者側代理人として参加している大物弁護士マッティンガー(ハイナー・ラウターバッハ)の、「では何故コリーニはマイヤーを告発しなかったのか」、という問いかけを基に、当時のドイツの刑法改定に絡んでの重大な問題をめぐる法廷闘争が始まり、どんどん面白くなる。数多くあるナチス関係の復讐劇の一つに見えていたものが、戦争犯罪への対処の仕方の問題として現在のドイツにも繋がってくる。戦後、ドイツでも戦時中の犯罪者を擁護しようとする勢力、もしくは自分たちを犯罪者の範疇から除外しようとする勢力は、一貫して根強く残っており、1968年の「ドレーアー法」という法律により、「法や命令に従って」戦争犯罪に加担した者たちの時効を短縮することで大量に免罪したことが説明される。ドイツも現在ではこの法律が間違っているとして、見直しが進んでいるとのことだが、この法律が正義に反するということを、ライネンから追及されたマッティンガーもやがて認めることとなる結末である。
ラストでは満足したであろうコリーニが、拘置所内で判決前に自殺するのであるが、当初なぜナチスの背景ともども動機を黙秘し続けたのかやはり判らず、ちょっと釈然としない。
映画でも散々描かれてきたナチス犯罪ものが、今も手を変え品を変えて作り続けられているのも、ドイツ人の戦争に対する真摯な向き合い方の現れに思え、都合の悪いことは無かったことにしようとする勢力が幅を利かす日本との違いを改めて痛感させられる。
エリアス・ムバレクの新米弁護士ぶりも良いが、フランコ・ネロとハイナー・ラウターバッハの存在感が強く印象に残った。
総合評価 ⓸ [ 評価基準:(⑥まれにみる大傑作)⑤傑作 ④かなり面白い ③十分観られる ②観ても良いがあまり面白くはない ①金返せ (0 論外。物投げろ)]
「ナイチンゲール」(2018年・豪)
監督 ジェニファー・ケント
尻切れトンボの復讐劇
(以下、ネタばらし有り)
イギリスの流刑地となっていた19世紀のオーストラリア、タスマニア島が舞台。仮釈放が認められているクレア(アシュリン・フランチオージ)は、その地を監督するイギリス軍大尉ホーキンス(サム・クラフリン)に女性として目をつけられていて、仮釈放はなかなか実行されない。そのうえ、夫がホーキンスに強く抗議したことがきっかけで、夫と赤ん坊を目前で殺され、自分はレイプされてしまう。気を失っていた状態から目覚めたクレアは、原住民アボリジニのビリー(ベイカリ・ガナンバー)を道案内に雇い、栄転の上訴のために北部の中心都市に向かったホーキンスたちの後を追う。
復讐心に燃えるクレアは、ビリーの意見も聞かずに、あとさき考えないで密林の中を猪突猛進しようとするのだが、いくら何でもそりゃ無茶だ・無理だと思わせる行動である。ビリーが、うんざりしながらも何とか見捨てないで助けてくれるために徐々に進んで行く。クレアは、途中で負傷してはぐれた若い兵士に追いついくや、これでもかというばかりに突き刺して殴って惨殺する。この兵士と大尉、軍曹の三人がレイプ・殺人の実行犯なのだが、クレアの復讐心のすさまじさがよく表れた行為だ。ところが、次に大尉たちに追いつき、前方の丘に先回りして岩陰から銃で狙っているところへ大尉たちが差し掛かると、クレアは射撃するどころか、突然おじけづき銃を放り出して逃げようとするのである。その前に惨殺した兵士が夢に出てきてうなされるというちょっとした伏線らしきものはあったにせよ、あまりに唐突な変容ぶりに観ている方は唖然とするしかない。
逆に大尉たちから追われたクレアは、崖から落ちて住民に助けられたり、一旦はぐれたビリーとも出会ったりして成り行き任せのようにして町にたどり着くが、大尉を殺すことはあきらめている。そして、将校たちが大勢集まっているパブらしき所へ乗り込んで、皆の前で大尉の悪逆行為を滔々と述べ始める。全く不自然極まりないのは、その場の誰もそれをさえぎろうとせず静かに聞いているばかりか、クレアが演説の後、一曲、歌まで歌ってから立ち去るのを黙って見守るばかりなのである。結局、復讐などに関わるのなら案内したくないと思っていたビリーが、自分の親族とも言える老人を大尉に殺されたことから、夜中に大尉たちの宿舎に忍び込んで大尉と軍曹を殺すのだが、自らも致命傷を負ってしまい、クレアと二人で海辺にたどり着いて夜明けを迎えるラストとなる。
いとも簡単に人が殺されるバイオレンス映画だが、復讐劇としては全く尻切れトンボと言わざるを得ない。特筆すべきは、入植者イギリス人のアボリジニに対する暴虐を正面から描いていることであろう。印象的なのは、クレアとビリーを泊めてくれた老夫婦が、ビリーを人間扱いして同じ食卓での食事を勧め、ビリーがそれに対して泣きだしてしまうシーンである。一見、親切に感動して泣きだしたかのように見えるかもしれないが、そうではなく、本来、自分たちの土地であるところに入り込んで来た侵略者から親切にされることが、普通あり得ないことだと喜ばざるを得ないという、自分たちの置かれた理不尽な境遇を想って泣き出したのであるということが、その後のセリフからわかるのである。
なお、字幕ではアボリジニを「黒人」と呼んでいるが、やはりここは「アボリジニ」か「原住民」とすべきであろう。
総合評価 ③ [ 評価基準: (⑥まれにみる大傑作)⑤傑作 ④かなり面白い ③十分観られる ②観ても良いがあまり面白くはない ①金返せ (0 論外。物投げろ)]
「グッドライアー 偽りのゲーム」(2019年・米国)
監督 ビル・コンドン
大筋から細部までちょっとお粗末
(以下、ネタばらし有り)
ベテラン詐欺師ロイ(イアン・マッケラン)が、夫を亡くして間もない老資産家ベティ(ヘレン・ミレン)に出会い系サイトで近づき、その資産を騙し取ろうという話。詐欺師の話は、その過程が如何に巧妙に組み立てられているか、成功するかどうかの緊張感があるかどうかで面白さが決まる。本編も十分に期待させ、当然さらなる裏が有るだろうとも思わせる滑り出しなのだが、ちょっとお粗末すぎる話だ。
ベティに対してと、その前段階の投資家たちを騙す話の内容が、単に「我々の積み重ねた実績に示される通り、この投資により確実に資産が倍になります」というだけの無内容なものなのに、まずあきれるしかない。これにより詐欺話としてはすでに失格なのだが、細部にもいろいろと粗が目立つ。詐欺話には細かいところまでリアリティが重要であるはずなのだが。投資家たちとロイグループの会合で、投資が完了したとたんに、「盗聴器が仕掛けられていた。警察が来る。」となって、投資家たちが逃げ出す仕掛けだが、単に投資の会合で何故すぐに逃げる必要があるのか。またロイは後日、騙された投資家たちに簡単に見付けられて追われるのだが、これがベテラン詐欺師の仕事と言えるのか。しかもその相手の一人など、追われた末に地下鉄のホームでもみあい、電車の前に突き落として殺してしまうのだか、イージー過ぎる対処で、これで済むのなら全て深く考える必要も無いはずであり、とても詐欺のベテランどころではない。
ベティは騙されたと見せかけて別の狙いがある為なのだが、簡単にロイを同居させるのも不自然すぎる。また、投資するにあたって共同口座にしなければならない理由も、金に困っているわけでもないのに全預金をつぎ込む必要性も、全く説得力が無い。当資金が倍になったら、ヨットや豪華旅行ができるとベティが夢見るように言うのも白けるだけだ。今でも十分できる話なのに。
そして、ロイは60年以上昔の第二次大戦直後のナチスがらみの事件で、別人に成りすました人間だとわかったり、ベティの狙いが単に逆騙しでロイの金を奪うだけでなく戦争末期の家族の復讐だと明かされるのだが、やはり唐突感は否めない。ここまでは読めなかったでしょう、とでも言いたいのか、どうにも無理が有る。ベティが家具を運び出した後の屋敷で、騙されたことに気づいて引き返して来たロイに真相を明かす場面で、全く護衛が隠れていないというのも変な話である。
イアン・マッケランとヘレン・ミレンという老俳優の演技で、それなりに最後まで退屈せずに見ることはできるが、やはり大いに期待外れであった。
総合評価 ③ [ 評価基準: (⑥まれにみる大傑作)⑤傑作 ④かなり面白い ③十分観られる ②観ても良いがあまり面白くはない ①金返せ (0 論外。物投げろ)]
「ジョジョ・ラビット」(2019年・独・米)
監督 タイカ・ワイティティ
子どもの眼を通したナチス信奉
(以下、ネタばらし有り)
第二次世界大戦末期のドイツで、ナチスとヒトラーにあこがれながら成長する10歳の少年を通して戦争を描いた映画。父親が戦場に行ったまま行方不明で、母親と二人暮らしのジョジョ(ローマン・グリフィス・デイヴィス)は、ことあるごとに想像上のヒトラーを出現させて相談しながら自分を鼓舞している。ヒトラーユーゲント(ナチス青少年団)加入して訓練を受けるが、自宅では、母親が隠し部屋に匿っていた年長のユダヤ人少女エルサ(トーマシン・マッケンジー)と遭遇し、とまどいつつギクシャクした交流が始まる。教わった通りにユダヤ人は悪い劣等な人間だと信じ込んでいるラビットだが、目前のエルザがそうとも見えず、そのギャップを処理できずに困惑する。そしてそのたびにヒトラーを登場させて相談し、ナチスの教えを信じようと努める姿が笑わせるのである。
国中を支配するナチスの思想に洗脳されているのは、ジョジョも他の大人たちと同様なのだが、それだけで全てを考えることができず、10歳の子どもとしての自然な感性が働いてしまうということがミソなのである。靴紐も満足に結べないジョジョがやがて結べるようになったように、家宅捜索を受けたりなどナチスとの関わりとエルザとの交流が続いていく中で、考え方も変化していく。やがて、秘かに反ナチ活動を続けていた母親が、殺されて広場に吊るされている姿を発見し、その足に取りすがって泣きながら、靴紐をきちんと結び直すシーンは感動を呼ぶ。連合軍のベルリン侵攻で敗戦となるが、部屋に隠れていたエルザにどっちが勝ったのか聞かれて、次第にエルザに好意を寄せるようになっていたジョジョは、エルサと離れたくないためについドイツの勝ちと答えるシーンも面白い。
ナチス信奉者が破滅へと突き進んでいく中で、子どもの眼を通して当時の状況を描くという狙いは成功しているだろうが、そのためにあえて戦争の残虐な面を抑えて、ややファンタジーに流れ過ぎたという嫌いは確かにある。ベルリンの市街戦でも派手に撃ち合って砲撃も続くのだが、飛び散る血しぶきも引き裂かれる肉体も死骸の山も描かれることはないのである。ジョジョの親友のヨーキーも戦場を右往左往しながら結局無事に助かる。また、二人暮らしの母親の死がジョジョに与える衝撃もあまりにもあっさりし過ぎているし、その後の日常にも大きな変化は無いように見える。
母親役のスカーレット・ヨハンセンとドイツ軍大尉サム・ロックウェルは好演だが、監督が演じたヒトラーはいただけない。演技が下手ということなのか、想像上の人物とは言え、あまりに威厳が感じられず、存在感の無い浮き上がった感じだ。
総合評価 ④ [ 評価基準: (⑥まれにみる大傑作)⑤傑作 ④かなり面白い ③十分観られる ②観ても良いがあまり面白くはない ①金返せ (0 論外。物投げろ)]
「残された者 -北の極地-」(2018年・アイランド)
監督 ジョー・ペナ
サバイバルシーンのみを描いて成功
(以下、ネタばらし有り)
北極圏の無人地帯に不時着した飛行機からの生還を試みる男のサバイバル映画。不時着した飛行機をシェルターとし一人で救出を待つオボァガード(マッツ・ミケルソン)は、氷雪原の地面を削ってSOSの文字を大書したりなど、できることを工夫しながら過ごしている。やがて現れたヘリコプターは、救助してくれるものと喜んだ目前で墜落してしまい、パイロットは死亡し、同乗の若い女性は重傷を負ってしまう。オボァガードは、女性を飛行機まで運び込むが、結局、観測基地まで即席のそりで女性を引っ張って移動することに決める。
ほとんどオボァガードの一人芝居であり、当然ながら会話もないので、たまに独り言をつぶやく以外にセリフもない。映画としてもそれ以上の説明は一切なく、飛行機が不時着した理由も、ヘリコプターが墜落した理由も、そもそも何のためのヘリコプターだったのかということも、ほとんど表されない。ひたすら北極圏の大自然と、その中でもがくちっぽけな人間としてのオボァガードの姿が淡々と描かれるだけである。途中、吹雪に会ったり北極熊に遭遇したりし、また力尽きて女性を見捨てていきかけるなどの葛藤が描かれるが、それ以上の登場人物も動物もなく、聞こえるのはそりを引っ張るオボァガードの息遣いのみというシーンも多い。大雑把な地図で地形を判断し、ビバーグの場所を探し、食事の支度をするという繰り返しである。しかし、その一つ一つの動作が見るものを惹きつけて飽きさせない。急勾配の斜面に挑戦してそりを引き上げ切れず、何度も滑り落としてしまうだけのシーンもかなりの緊迫感である。
やがてオボァガードも岩の割れ目に落ちて片足を痛め、最後に力尽きかけたとこに現われたヘリコプターにも発見してもらえない。倒れ込んでいよいよ絶望かと思えるところで、舞い戻って来たヘリコプターがすぐそばに着地するというエンド。その最後も救出の対面シーン等全くなく、事実の提示のみというスタイルの徹底が気持ち良い。結局、最後まで当初の出来事や人物の説明は一切されず、当然ながらドラマチックな盛り上がりとしてはもう一つ物足りないが、サバイバルのための奮闘シーンのみで一貫し、それが成功している。
一人芝居の成功には、マッツ・ミケルソンの存在感と好演によるところが大きい。
総合評価 ④ [ 評価基準: (⑥まれにみる大傑作)⑤傑作 ④かなり面白い ③十分観られる ②観ても良いがあまり面白くはない ①金返せ (0 論外。物投げろ)]
「荒野の誓い」(2017年・米国)
監督 スコット・クーパー
生死の間での人種を越える信頼関係
(以下、ネタばらし有り)
西部開拓が進み、町や農場ができて急激な変貌をとげる19世紀末が舞台。対インディアン戦争で数々の武勲を上げたジョー・ブロッカー大尉(クリスチャン・ベイル)が、ニューメキシコ州に収監されているシャイアン族の首長イエロー・ホーク(ウェス・ステューディ)とその家族を彼らの故郷のモンタナ州まで護送する任務を命じられる。未だにインディアンに対する敵愾心を捨てきれないブロッカーは、しぶしぶ受諾して4人の部下と共に出発し、一種のロードムービーが展開される。
途中、コマンチ族に農場を襲われて夫と子供たちを惨殺され茫然自失のロザリー・クウェイド(ロザムンド・パイク)に出会い、保護し連れて行くことになる。さらに中盤で立ち寄った町の軍隊からの依頼で、インディアン一家を惨殺し逃亡して捕えられた兵士の護送も加わる。彼らは重ねて襲撃してくるコマンチ族や、無法者の毛皮ハンターと戦うことになるのだが、そのために協力し合う必要に迫られ、その中で自然に信頼し合う気持ちが強まっていく。その過程がごく自然にうまく描かれ、本編の一つのテーマとも言える、人種や立場を越えた人間関係の貴さが謳われている。そういう意味ではブロッカーと部下たちとの強い絆の描かれ方も同様である。
また一面では、生と死が紙一重とも言える戦場や西部一帯の過酷な現実も描かれ、実際、旅立ち早々に部下の一人がコマンチとの戦いで死んだのを始め、登場人物は次々とあっけなく命を落としていく。過酷な戦いの中でブロッカー自身も、過去には女子供も含め大勢の人間を殺してきているのである。任務であったり、身を守るためであったりであろうが、全てを正当化する開き直りではなく、精いっぱいの結果として受け止めて生きている状況がクリスチャン・ベイルの演技でひしひしと伝わってくる。捕えられ護送される囚人はかつての部下であるのだが、どうせ殺しまくってきたのだからインディアンなど殺して何が悪いのだと言い募るのと対照的である。また一方て、部下であり親友とも言えるトーマス軍曹(ロリー・コクレイン)は、そういう状況の中で生死や戦いの正当性などを思い詰め、うつ状態になって拳銃自殺してしまう。その悲しみに耐えるベイルの演技も感動的である。
ようやくモンタナまでたどり着いたとき、末期癌であるイエロー・ホークに対するブロッカーの会話では、強い信頼関係が描かれ、過去の憎しみにとらわれず前に進んで行こうという思いが語られる。一貫して無口な演技で表現されてきたブロッカーの心情の、揺れ動いたのちの結論とも言える核心のセリフである。
また、ともに旅するブロッカーやインディアンとの関係をてこに、絶望から次第に立ち直っていくロザリーを、ベイル同様、しゃべり過ぎない抑えた演技で表現したロザムンド・パイクも好演である。
ちょっとした難点は、最後の戦いで余りに大勢が殺されてしまうことである。最初に発砲したロザリーも含めると4対4であり、こちら側は戦闘のプロが揃っているのにだ。ストーリー上、ほぼ全員を死なせてしまいたかったのだろうが、やや不自然である。また、最終のブロッカーの選択は、自分としては列車に乗らない方がよかったと思われる。好みの分かれるところではあろうが。傑作である。
総合評価 ⑤ [ 評価基準:(⑥まれにみる大傑作)⑤傑作 ④かなり面白い ③十分観られる ②観ても良いがあまり面白くはない ①金返せ (0 論外。物投げろ)]
「台風家族」(2019年・日本)
監督 市井昌秀
馬鹿馬鹿しくお粗末すぎる話
(以下、ネタばらし有り)
10年前に2000万円の銀行強盗をし、妻と行方をくらました男(藤竜也)の子どもたちが集まり、けじめをつけるために両親の葬儀を営みつつ相続の相談をするという話。およそ800万円になるという土地と家屋を自分一人のものにしようとする長男・小鉄(草彅剛)に対し、次男・京介(新井浩文)と長女・麗奈(MEGUMI)が強く反発しドタバタ的な争いになる。麗奈の彼氏も呼ばれもしないのにやって来てドタバタに加わる。さらに三男・千尋(仲村倫也)が遅れて登場し、この集まりの招集者であると言い、今までの皆のやり取りを隠しカメラでユーチューブに実況中継しているのだと明かして、皆を驚かせ慌てさせる。
ここまではそれなりに面白くちょっと期待させるが、その後の話は加速度的に馬鹿馬鹿しくなっていくのである。ユーチューブ実況はちょっと意表を突いたアイデアで、それがどう展開するのかと興味を持たせるが、結局それを見て二人の人物が訪ねてくるだけで、どこまで中継が続いてどうなったのかは何も触れられず尻切れトンボである。訪ねてきた若い女から銀行強盗の裏の話を聞かされるのだが、それによると父親が強盗をしたのは、女が掛けた小鉄の交通事故という詐欺電話のためだとのこと。しかし、受けた電話一本で、何の確認も対策も検討せずいきなり銀行強盗に走るなど全くあり得ないであろう。ぼけ老人でもあるまいし、曲がりなりにも永年、葬儀店を経営してきた男がである。また、その電話が詐欺ではなく事実だったとして、犯人の割れた強盗で得た金を提供して解決できると思えるのか。ドタバタがハチャメチャな馬鹿話にエスカレートするのかと思うとそうではなく、「感情の問題ではなく法律上の話をしているのだ」などと繰り返し中途半端な理屈が出てくる。法律論を言うのなら、生前贈与が相続に関係する対象年限や、財産を上回る負債への対抗策としての相続放棄の話くらいは、当然に出てくると思うとそれもない。
やがて子を思う親の話になり、急に昔行ったキャンプ場を思い出して、10年もたっているのに台風の土砂降りの中を皆で向かうことになり、行ってみると河原に一目瞭然の状態で両親と思われる遺体の骸骨が存在するという、滅茶苦茶な話。キャンプ場の近くで10年間見つからない訳がなく、当然その付近に留められた車の現金も見つかって事件はとっくに解決しているはずであろう。さらに、今度は突然骸骨が流れ出し、それを追った皆は河口の浜辺にたどり着き、全員で記念写真を撮っておしまいという阿保らしさの積み重ねである。
脚本も監督が書いたそうだが、どうしたらこんな馬鹿な話が作れるのか不思議でならない。キャンプ場に向かう時に使われるスローモーション・ストップモーションも全く意味をなさず、要は監督が単に遊んでいるだけなのであろうか。
余談として、新井浩文が強制性交罪で起訴されたため映画の公開が伸びたそうだが、新井の役どころが品行方正で社会の正義や倫理を体現しているものならともかく、何の関係があるのか理解に苦しむところである。
総合評価 ② [ 評価基準:(⑥まれにみる大傑作)⑤傑作 ④かなり面白い ③十分観られる ②観ても良いがあまり面白くはない ①金返せ (0 論外。物投げろ)]
「アルキメデスの大戦」(2019年・日本)
監督 山崎貴
稚拙なストーリー展開に興ざめ
(以下、ネタばらし有り)
1933年の戦艦大和建造計画に関する海軍省内の裏話が舞台だが、冒頭に大和沈没シーンを大々的に持ってきてまず惹きつける。監督の得意分野だそうだが、良く出来ていて見ごたえ十分である。もっとも、このシーンは「男たちの大和」でもっと詳しく細部まで描かれていたものではあるが。この後は海軍内での会議を皮切りに、嶋田少将(橋爪功)ら大和建造推進派と山本少将(舘ひろし)ら空母・航空機推進派との争いが最後まで続くのである。冒頭の戦闘シーンを見れば、航空機編隊の援護を受けない戦艦に勝ち目はなく、戦闘と言うより一方的に攻撃されているだけというのは誰の眼にも明らかなのだが、当時は巨大戦艦主義が優勢だったようだ。
山本らは、嶋田らの見積もりが安過ぎることに捏造の疑いを持ちそこを突こうと、天才数学者で、帝大を退学したばかりの櫂直(菅田将暉)に正しい見積もりを出すよう依頼する。軍隊嫌いで依頼をはねつける櫂と山本のやり取りが面白く、また依頼を受けた後の櫂と櫂の部下として補佐することになる田中少尉(柄本佑)も軍隊のしきたり等を巡っての食い違いがやや笑わせる。
しかし、この後の展開はだんだん馬鹿らしくなってくる内容だ。見積もりを出すための資料が、軍事機密として櫂に一切提供されないというのは余りにも不合理で、あり得ない話だ。確かに正式にしまい込まれた書類等を調べるのは無理かもしれないが、それまでに山本たちが手掛けてきた戦艦はいくつもあるであろうし、今回提出した航空母艦のものだって手元にあるはずだ。工賃や材料費さえも分らないなどという馬鹿な話があるか。嶋田陣営は櫂に対して妨害工作をしているらしいが、基本方針として強く争っているはずの山本たちが依頼後は丸投げでほとんど何も援助しないという、不自然で無理な設定で、櫂の困難さを強調しているのだろうが。
そして櫂は天才なので数学はともかくとしても、驚くのは2週間足らずのうちに独学で造船学をマスターしてしまい、追い詰められた土壇場で「戦艦の総トン数で総額が判る」という方程式を「発明」してしまうのである。最終の海軍省会議で、その数式を過去の戦艦に当てはめてみると、数パーセント位の差なら櫂の勝ちと思えるところが、1万円の位までピタリと当たってしまう。これでは今後一切の見積もり作業は不要となるのだろう。戦艦は言うまでもなく、どんな簡単な小さな物づくりにおいても、ひとつの変数で総額が判るなどという方程式があり得ないことは常識であろう。結局、会議では嶋田らの半値に近いインチキ見積もりが暴かれるのだが、そうすると嶋田側の平山造船中称(田中泯)が、「正しく莫大な額を発表すれば敵側にそれが漏れて対抗策をとられるからだ」と開き直り、海軍大臣か遠慮深謀だと感心し、それで決まりそうになる。唖然として今までの会議は何だったのかと思っていると、今度は櫂の指摘で平山の設計の不備が見つかり、平山は提案自体を取り下げるというめちゃくちゃ。
軽薄な役柄を演じているつもりなのか、芸達者なはずの橋爪が大根に見えるのに対し、田中の重々しい口調と演技が見るものを納得させてしまうところがあるのだが、言っている内容はお粗末極まる。最終にもう一ひねりしたつもりで描かれる、櫂に協力を求めるやり取りでは、後付けの屁理屈としか思えないことをもっともらしく語るのである。そもそも櫂に指摘されてすぐに間違いに気づく内容なら、自分で修正できるはずであろう。この屁理屈を、戦争防止のために働いてきた櫂が受け入れるのも全くおかしい。その他細かい粗は多々見られる。重厚壮大に始まりながら、だんだん興ざめし荒唐無稽の理屈に終わる映画だ。
総合評価 ② [ 評価基準: (⑥まれにみる大傑作)⑤傑作 ④かなり面白い ③十分観られる ②観ても良いがあまり面白くはない ①金返せ (0 論外。物投げろ)】