元巨人―ロッテで活躍し、
引退後はロッテの監督として、
『選手育成に長けた名監督』と言われた山本功児氏が、
64歳で死去しました。
何とも早すぎるその死のニュースには、
本当にショックを受けました。
山本功児氏と言えば、
2つの姿が目に浮かびます。
一つは現役時代のもの。
特に巨人時代の”背の高い一塁手”としての姿です。
76年に巨人に入団したものの、
その頃はまだまだあの”ビッグ1”王選手が巨人の1塁手には君臨していた時代。
そのため、
入団当初の山本功児選手は、
なかなか出場の機会に恵まれませんでしたが、
長身からバットコントロールのうまい打撃と本当にうまかった守備は、
巨人の屋台骨を支える『ベンチ組の層の厚さ』の源泉でもありました。
その頃ヤマモトコージと言えば、
75年に初優勝&MVPを獲り『球界のライジングスター』であった広島の山本浩二氏があまりにも有名だったため、
野球好きの子どもたちの間では、
巨人の山本功児選手はよく”ニセコージ”なんて呼ばれていました。
子どもはいつの世も”無邪気に惨酷なもの”ですから、
山本功児氏をどれほど傷つけていたんだろうなんてことを、
今になっては思いますね。
ちなみに高校は三田学園。
ワタシはしばらく『みた学園』と読んでいたのですが、
ある人から『いや、その学校は”さんだ学園”と読むんだよ』
と教えられた思い出が、かすかに残っています。
昭和40年代に高校野球の強豪校だったこの三田学園、
山本功児さんの時代には、
1学年下に同じ巨人で活躍した”マッハの打球を打つ男”淡口憲治氏もいて、
そのことを野球名鑑で『発見』した子供時代のワタシは、
『お~この学校、どんだけ強力打線なんだよ!』
なんて感嘆したことを覚えています。
そんな山本氏、
ロッテに移籍してから、
いぶし銀の輝きを見せてくれました。
現役時代の晩年に移籍した山本選手、
当時下位に低迷し続けていたロッテにあって、
『さすが巨人で鳴らしただけはある』
というようなプレーを随所に見せてくれたプレーヤーとして活躍。
そして現役引退後、
ロッテのコーチを長くやり、
99年からは監督に就任。
その当時、
金も使わず選手もおらず、
ファンもまばらという≪ないないづくし≫の厳しい時代のロッテにあって、
本当にその一本気な性格でチームを実直に支え続けたというイメージがあります。
『一歩、また一歩』
と、低迷する球団を少しずつ、少しずつ前に進ませてくれた、
そんなイメージのある監督です。
結局1度も勝率5割を超えることはありませんでしたが、
『山本イズム』は選手の中だけでなくファンにも深く浸透して、
その後の飛躍につなげていったことは、
誰しもが認識していることでしょう。
ワタシも西武ファンとして相対していた監督さんでしたが、
『いい監督だなあ』
と思ったことは、一度や二度ではありません。
結果は残せなかったものの、
ロッテの歴代監督の中では【名将】だったと、
今でも思っています。
その後は巨人のヘッドなどをやりながら、
いつしか顔を見なくなっていきましたが、
ワタシは『年齢もあるから、指導者も引退したんだろうな』
ぐらいに思っていました。
そして昨年。
彼の息子である山本武白志選手が九州国際大附属のスラッガーとして、
勇躍甲子園に登場。
父親である山本功児さんの姿も、
応援席から見ることが出来ました。
そしてその時の記事で、
病気と闘っていることを知りました。
そして、
武白志選手の高校生活での苦境をおもんぱかり、
家族で神奈川から福岡に移り住んだことも。。。。
その話を聞いた時には『大胆なことするなあ』と思っていたのですが、
今このニュースに触れて、
自分の寿命を知り、そして愛する息子のために家族全員でサポートしたということを思うと、
同じ子を持つ親として、
涙を止めることが出来ませんでした。
武白志選手はまだまだ高卒1年目の育成選手。
どれだけ彼のことが心配で、
そしてどれだけ期待していたことでしょう。
その胸中を思うと。。。。。
この辛い出来事で、
武白志選手が野球人として、そして一人の青年として一皮むけ、
素晴らしい選手に育って再び私たちの前に姿を見せてくれること、
楽しみに待っていようと思っています。
そして、
長くプロ野球ファンを楽しませてくれて、
熱くさせてくれた山本功児さんのご冥福を祈ります。
どうぞ安らかに。
涙。。。。