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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

選抜出場校  こんなこと思い出しました (その7)

2016年02月18日 | 高校野球

思いつくまま、気の向くままの連載記事。
第7回『中国近畿編2』です。



≪選抜出場校 思い出編7≫


中国代表  創志学園(岡山)     2度目(5年ぶり)
                             夏出場なし  甲子園通算0勝1敗

岡山の新星として、創部わずか2年目でセンバツ初出場を果たしたのが2011年、5年前のことです。女子ソフトボール界の名将で、夙川学院を16度も全国制覇に導き、その後ソフト日本代表ヘッドコーチなどを歴任した後高校野球界に身を投じた長沢監督。神村学園ではチームを選抜準優勝にも導いた指揮官を招きチームを創設したのが2010年でした。既に還暦を迎えたこの長沢監督が、最後のご奉公に選んだのがこの創志学園ですね。そのチーム作りの手法に賛否はありますが、強くするということにかける情熱は満点。名門校がずっと群雄割拠の時代を続けている岡山の高校野球界に、ハレーションを起こす存在になっています。岡山には行く機会も多く、町の地図も頭に入っているのですが、今岡山県の高校野球界を引っ張る新旧の代表格である、この創志学園と関西高校。学校が本当に、びっくりするぐらい近くにありますね。歩いたら2,3分じゃないでしょうか。夏の県大会前なんか、お互いの火花がバチバチ散っているんじゃないかなあ・・・・なんて、考えたりしています。前回2011年出場の時は、チーム結成わずか1年で下級生ばかりのチームでしたが、大舞台では臆することなく自分たちの野球をやりきった感じがありました。選手宣誓も確か、創志の主将だったですよね。。。あれからはや5年。この五年という年月は、長沢監督や学校関係者にとって、果たして長い年月だったのか、それともあっという間だったのか。なかなか試合後のインタビューなども面白い長沢監督。今年のチームは、剛腕高田でひと波乱を狙っています。




中国代表   南陽工(山口)    5度目(7年ぶり)
                            夏3度出場 甲子園通算 5勝7敗  

南陽工と言えば、剛腕津田恒美。カープの”炎のストッパー”と言われ活躍しながら、志半ばで急逝したこの豪腕の胸のすくピッチングは、いまだにカープファンのみならず、プロ野球ファンの脳裏に深く根ざしていますね。『津田の前に津田なし、津田の後に津田なし』のこの南陽工が、00年代に入ってまた復活してきたのは、ファンにとっては嬉しいことです。まあそれにしても、津田のデビューは本当にセンセーショナルなものでした。77年秋のこと。中国大会を勝ちあがり選抜を決定的にしたこの無名の学校に、なんだかどえらいピッチャーがいるという噂が耳に入ってきました。グーンと伸びるストレートは一級品とのことで、大会前から、注目の投手の1番手に上がっていました。ワタシはセンバツでその投球を見た時、前年に見た小松(星稜)と比べていました。どちらも、ものすごく伸びのあるストレートを投げるというのがその印象で、『甲乙つけがたい』という思いを抱きました。その津田は、甲子園で好投を続けて選抜では8強進出。夏も1勝を挙げて、気を吐きました。しかしチームとしては、この頃は珍しくなかった完全な津田のワンマンチーム。何しろ打てるのが津田と3番の藤本ぐらいというチームでしたから、いかに津田が相手を抑え込んでも、強豪に伍していける力はありませんでしたね。『普通の公立校に突如現れた怪物』という感じでした。敗れた試合は、春が1-2、夏が0-1でしたので、もうちょっと打っていれば・・・・・という試合でした。その後津田は社会人野球を経てドラ1で堂々とプロへ。そしてその後の活躍は、語るまでもありません。キップのいい、胸のすくピッチングの数々は、プロ野球の華でした。野球殿堂入りも果たして、津田という素晴らしい投手が後世まで語られるということには、喜びを感じています。その後の長い低迷を経て甲子園に戻ってきた南陽工、輝いたのは09年春の2回戦。優勝候補のPL相手に、エースの岩本が好投をした試合でした。相手エースの中野に9回までノーヒットノーランに抑えられながら、岩本がしのいで延長に持ち込み、10回に爆発して勝った試合、これが南陽工としての『甲子園ベストゲーム』ではないでしょうか。ワタシもこの試合、見ながら興奮してしまったことを覚えています。




中国代表   開星(島根)      3度目(6年ぶり)
                             夏9度出場 甲子園通算 3勝11敗   

『山陰の名門』の称号をガッチリと自分のものにする開星。開星と言えば、『やくざ監督』と言われた野々村監督抜きには語れません。まあこの監督、ユニークな人でした。高校野球を通じて”男”というものを教えるのが監督の役目と言い切り、チームをゼロから強豪へと育て上げました。この監督さんの上梓した本を読みましたが、まあユニークな人です。うなずけるところもあり、うなずけないところもありということでしたが、元々広島の府中東で監督をして甲子園に導いたのが、甲子園とのかかわりのきっかけです。その後開星(当時・松江第一)の監督になり、何度挑んでも勝てなかった甲子園で初勝利を挙げたのがなんと07年。長いことかかりました。その間には、秋季中国大会で優勝したのに、違反が見つかり甲子園への推薦を辞退なんてこともありました。そして何と言ってもこの監督を有名にしたのが、10年センバツでの舌禍事件。その前年に選抜で優勝候補の慶応を見事に破り一躍その名をとどろかせた開星が2年連続で挑んだこのセンバツ。前年秋の中国大会を圧勝していたこともあり、開星は優勝候補の一角にも挙げられるほどの力強いチームでした。初戦の相手は21世紀枠出場の向陽。試合前の予想では、どの新聞も開星の圧勝を予想していましたが、ふたを開けてビックリ。好投手白根があっさりと先制されると、あとは焦って相手投手のスライダーをひっかけまくり、あっという間に『終わっていたら負けていた』試合となりました。その後インタビュー台に乗った野々村監督。その壇上で、『21世紀枠に負けたのは末代までの恥』『腹を切ってお詫びしたい』などの発言を連発。この発言、後になって思えば、野々村監督のキャラが世間にもっと浸透していれば、なんてことのない発言だったと思います。『ああ、あの人、またあんなこと言って・・』ぐらいの世間の反応だったことでしょう。しかし、この発言を面白おかしくスポーツ紙などが報じたからさあ大変。上へ下への騒ぎになって、野々村監督の風貌と相まって、『なんだ、あいつは・・・・・』という炎上になってしまったというわけですね。まあ、今風の燃え上がり方ですよね。そして翌日、高野連本部に『事情説明』に向かう時の野々村監督のファッションがまた、凄かった。『任侠』という単語がすぐに連想されるようないでたちで、その姿をまた、マスコミがパシャパシャ撮って翌日の新聞紙上に面白おかしく乗せたからさあ大変。そこからの野村監督、完全に『やくざ監督』の異名とともに『出来上がったキャラ』に祭り上げられてしまったというわけです。残念な出来事でした。完全にマスコミの『面白おかしい記事作り』に乗せられてしまい、彼の本質や野球にかける情熱などは何も語られることなく、異名とキャラが独り歩きする事態になって、休養に追い込まれてしったということでした。その夏。現在の山内監督が代行監督となって出場した夏の選手権。仙台育英との激闘は、語り草になっています。9回表2死2・3塁、1点リードの開星のエース白根。渾身の一球でバッターを浅いセンターフライに打ち取り、キャッチャーとマウンド前でハイタッチ!までは良かったが、センターがこの球をまさか、まさかの落球。大逆転を許して、その裏の気迫の逆襲も、2死から放った『絶対に逆転だ!』と思われた左中間の大飛球を相手レフトが渾身のダイビングキャッチ。【球史に残る大激闘】は幕を閉じたのでした。その後も、11年の日大三、14年の大阪桐蔭など、優勝校と互角以上に渡り合う試合を何度も演じ、開星はかなりチーム力を上げている実感があります。12年に退任した”野々村遺産”を受け継いで、『山陰の暴れん坊』の異名を、全国のファンに見せつける機会を、チームはうかがっています。


(つづく)


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