先週、現役最年長投手である工藤公康が、
引退を表明しました。
およそ30年にわたるプロ野球生活で、
224勝を挙げた左の好投手。
若かりし頃は勢いに任せてビュンビュン投げまくり、
また奔放な性格と相まって【球界の新人類】と言われたものでした。
その後は投球理論、トレーニングなどへの造詣が深いところを見せ、
すっかり理論派投手として、
『太く、そして長く』
活躍した投手でした。
30年にわたる現役生活の中で、
薫陶を与えた選手たちは数知れず。
このたびは新生≪横浜DeNAベイスターズ≫の初代監督になるかと大いに期待したのですが、
その夢はかなわずでした。
しかしながら、
彼ほどの球歴と理論をもってすれば、
近い将来必ず指導者として、
球界に戻ってきてくれるものと信じています。
その根っからの明るい性格で、
チームをぐいぐいと引っ張っていってもらいたい人物です。
横浜に行かなかったということは・・・・・
渡辺監督の後継監督として、
西武に戻ってきてもらいたいなあ。
さてその工藤、
多くの野球ファンにその名を知らしめたのは1981年の甲子園。
この大会、
多くの球児たちが後にプロ野球のスター選手となった、
人材豊富な大会でした。
大会前の話題は、
前年の甲子園で準優勝した荒木大輔の早稲田実が全国制覇なるかということと、
前年の甲子園優勝校でありながらその後の暴力事件で半年間の対外試合禁止処分を受け、
それでも甲子園に戻ってきて連覇を狙う横浜高校の活躍でした。
その両校に、
力のある金村の報徳学園、松本の秋田経大付などが絡むだろうというのが大会前の予想。
しかし大会前半の話題を独占したのは、
ひとりの左腕投手でした。
その投手こそ名古屋電気のエース、工藤公康。
大会前から好投手の一人に挙げられてはいましたが、
その投球を見て野球ファンは度肝をぬかれました。
ストレートの速さは140キロそこそこでしたが、
なにしろカーブの鋭さと言ったらもう・・・・・・
プロでも見られないぐらいのブレーキの鋭さでした。
相手の長崎西の選手たちのバットは、
それこそ面白いように空を切り、
終わってみれば15か16の三振を奪いノーヒットノーランを達成。
今よりもずっと甲子園の注目度の高い時代です。
工藤の名前は一気に日本全国に広まりました。
カーブのキレ。
カーブというより、
昔風の言い方で言うと”ドロップ”。
浮き上がるような軌道の後急降下、
マンガで書けば”ストン”と落ちるような球です。
カーブの曲りだけで見れば、
歴代の高校野球投手の中でも屈指であることは間違いありません。
とにかく追い込めばすべてカーブ。
しかしバッターは、
分かっていながらほとんどかすりもしませんでした。
3回戦の北陽戦はもっと圧巻。
延長12回(?)で、21三振を奪いサヨナラ勝ち。
『好投手・工藤』の名を、
世にとどろかせました。
結局準決勝で金村の報徳学園に敗れましたが、
打の金村とともに『大会の華』だったことは間違いありませんでした。
その工藤が次に注目されたのは、
その年の秋から冬にかけてのこと。
かねてから社会人野球・熊谷組入りを表明していた工藤は、
ドラフトの前には各球団に、
指名をしないでほしいという『お願い』を送付していました。
しかしそんなことにひるまず指名したのは、
球界の寝業師の異名をとる西武ライオンズ・根本管理部長でした。
何せこの人、
チームを強くするためには何でもやる。
『ドラフト制度』下のプロ野球界にあって、
何とか有力選手をその制度の『網を潜り抜けて』獲得するかということに、
全精力を傾けていました。
有力選手の囲い込みによる獲得例としては・・・。
前年に進学希望を表明していた八代高・秋山(SB監督)を強引に口説き落としてドラフト外で指名したのをはじめ、
定時制に通っていた伊東(元西武監督)は何と熊本工⇒所沢高に転校させることによって囲い込み、
この年(昭和56年)のドラフトで強引に指名。
そして極め付けがこの工藤でした。
『絶対にプロには入らない』
と言っていた工藤をじっくりと口説き落とし、
年明け前には『入団』にこぎつけました。
まさに『根本マジック』炸裂でした。
結局この工藤はもとより、
秋山も伊東も超一流選手となり、
西武の黄金時代を支える選手に成長。
そういった意味では、
やはり『根本なくして西武はなかった』
というのもうなずけるところです。
その工藤の入団と同時期にチームの指揮を執ったのが広岡達郎。
何かと話題を提供してくれるこの指揮官に、
工藤は『坊や』と呼ばれて可愛がられました。
1年目からあの鋭いカーブを武器に、
ワンポイントリリーフとして活躍、
昭和57年の西武のV1にも貢献しました。
秋山も伊東も、
そのV1時代にはベンチにも入らなかった若手選手でした。
そういう意味では、
工藤は西武のV1時代を知っている、
数少ない選手です。
(だって、田淵が打って、江夏が打ち崩された・・・・・・・・そんな時代ですもんね)
その後順調に成長を遂げた工藤は、
昭和60年からは先発ローテーションの一角へ。
そして昭和61年、62年には日本シリーズ2年連続のMVPという快挙を成し遂げました。
勢いのあるストレートとカーブ。
正に向かうところ敵なしの時代でしたね。
この時工藤はまだ23歳、24歳のころ。
正に未来はバラ色だと思われました。
今の勢いで行けば、
90年代半ばには200勝も達成するだろう、
そんなことも言われていたのを記憶しています。
しかし、
この年をピークに彼の投手人生は暗転します。
すべてを手に入れた青年は、
その後野球に打ち込む気概を失っていったようです。
本人も言っていますが、
『完全に天狗になって遊びすぎ』
たことが徐々にその投球に現れ始めます。
『球が走らない』
それがすべてだったと思います。
ワタシのテレビや球場で見る工藤の球があまりにも走っていないことには、
危惧を抱いていました。
89年や90年は特に、
素人のワタシにもはっきりとわかるぐらい悪かったので、
衰えたのかなあと思っていました。
そして、
活躍する年としない年がはっきりしていたため、
なんとなく西武ファンの中でも『彼がエース』という認識はあまりなかったように思います。
しかし考えてみると、
そんな好不調を行ったり来たりする中で、
彼自身大きなココロの変化があったんでしょうね。
投球や言動にも、
徐々に変化が現れてきました。
そして、
95年に『環境を変えてリセットするため』、
ついにFAでダイエーへ移籍していきました。
(その頃のダイエー、弱かったですもんねえ。本音では、なんで移籍するのかなあ、と思っていました。)
そしてダイエーでは5年、
その後移籍した巨人では7年間、
現役生活を続けました。
引退した今、
移籍後の彼の野球人生後半の成績を見ると、
一流とは言い難い成績が並んでいるように思います。
年間12勝が最高。
12年で6回の二けた勝利を挙げているものの、
勝ち数と負け数もさほど差がない成績です。
その間の成績 102勝77敗。
それでも30代から40代にかけての成績ですから素晴らしいとも思いますが、
彼が【エース】という働きをした印象よりも、
【ローテ投手】として投げ続けてきたという思いが強い印象ですね。
正直に言うと、
ワタシの中ではさほど印象に強く残った投手ではないのですが、
それでも工藤の200勝達成の試合にはたまたま東京ドームに観戦に出かけており、
その試合のことはよく覚えています。
あの甲子園での衝撃。
そして20代前半での生きのいいピッチング。
それらから考えると、
もっともっと印象に残っていてもよさそうなものですが、
なんだか彼の素晴らしい投球は、
霧のかなたにかすんでしまっています。
年月が経ちすぎました・・・・かね。
昨年は15年ぶりに西武のユニフォームを着て1年間投げ、
ワタシもその雄姿を目に焼き付けました。
うれしかったなあ。昔の友人に故郷で再会したようで。
(まあ、なんとなく3塁側ブルペンから出てくるという姿に若干の違和感を覚えたものでしたが・・・・)
支離滅裂な文章となってしまいましたが、
これだけ長く投げ続けた投手もいないということで、
工藤投手、お疲れ様でした。
なんとなく思うのは、
彼の本領は指導者になってからこそ発揮されるのではないかということ。
どうか、
早く球界に戻ってくださいね。
最新の画像[もっと見る]
- さあ リーグワン開幕! 5日前
- 2024.10.26 オールブラックス戦観戦記 2ヶ月前
- 大の里 圧巻の2度目のV! 令和の怪物が相撲界を変える! 3ヶ月前
- 大の里 圧巻の2度目のV! 令和の怪物が相撲界を変える! 3ヶ月前
- 大の里 圧巻の2度目のV! 令和の怪物が相撲界を変える! 3ヶ月前
- 大の里 圧巻の2度目のV! 令和の怪物が相撲界を変える! 3ヶ月前
- ラグビーパシフィックネーションズカップ 日本代表 決勝に進出 3ヶ月前
- ラグビーパシフィックネーションズカップ 日本代表 決勝に進出 3ヶ月前
- おめでとう玉鷲。 1631回、連続出場の記録を更新! 4ヶ月前
- 第106回 全国高校野球選手権地方大会 クライマックス 5ヶ月前