うちの息子もかつて通った中学。
最近街でも時々みかけますけど、この中学も女子生徒は制服のボトムスを、スカートとスラックスの両方から選べるようになったらしく。
うちのマンションからその学校に通っている女子生徒が…
(たまに会うと知らないおっさんにも「おはようございます」と元気に挨拶してくれる、最近の子にしては珍しいタイプ)…
今日会ったらスラックス(ズボン)の制服で。
たしか前に見かけたときはスカートだったから、冬服はスラックスの制服を選択したのかな。
賢いですね。夏は涼しいスカートで、冬はあったかいズボンに履き替えるというのは。今の子はいいな、選択肢が増えて。
親の中にジェンダーフリー意識が高い人とかがいて「女の子がズボンの制服でもいいじゃないか」とか提言したのかな。
ただ…
彼女は見た目とくに気にならないんですけど、マンションのゴミ置き場の前を通って行く生徒たちの中には、男女問わず、何となくよれよれの格好をしている子が散見されて。
制服を着崩しているというのとはまた違うんです。汚れたままになっているというか、身なりをかまえていないというか。髪の毛とかもボサボサで。
「子どもの貧困」というのを思い出します。公立中学だし、この界隈は高級住宅地じゃなくてわりと庶民的な地域だし。
我々中高年は、豊かだった日本、一億総中流とか言われた日本しか知らないので、いまだにピンと来てないかもですけど…
いま子どもの貧困が大きな社会問題になってますからね。
日本の17歳以下の子どもの9人に1人が国際的な基準でいう「貧困状態」にある。とくにひとり親家庭の貧困率は、44.5%にもなるのだとか。
それだって今から3~4年前の統計ですから。賃金のアップをはるかに上回る速度の物価高の中、低所得者層で貧困状態に陥っている人の数、割合はさらに高くなっているはず。
それは言うまでもなく政治の失敗…というか、国を動かす仕組みを作り運営している者たちが、格差社会で上等!と思っている、いわゆる新自由主義者ばかりだからです。
そしてそれを支えているのは「普通の日本人」の中にはびこっている、「自己責任論」ですよ。
マスメディアやネット言論や、そして子どものころからおとなたちに聞かされてきた「通俗道徳」の洗脳のせいだとはいえ…
私たち自身の中にある「ひとに迷惑をかけるな」「自分の生活をちゃんとすることだけ考えろ。他人のことはほっとけ」という考え方が…
私たちから本当の意味での社会性というものを失わせ、この格差社会を放置させているんだと思います。
そしてイスラムのシャリーア(宗教法)が厳格な国並みのジェンダーギャップによる、男女間の所得格差。
子どもができた後で男に逃げられた、あるいは男から「逃げざるを得なかった」女性、結果的に母子家庭になったお母さんの家庭は、半分が貧困に陥っている。
それは本当に「自己責任」で済ませてそっぽを向いていて良い問題なんですかね。
他人の問題に口を突っ込むな、という冷たい心が、日本人らしさ、でいいんでしょうか。
自分ごとでない暗い話からは目をそむけて、個人的な楽しいことだけ考えて「日日是好日」で過ごす。人として、ほんとにそれでいいんですか?
じゃあ、社会ってなんですか?なんで人間は社会を作って生活しているんですか?
金集めと権力を競い合う、バトルフィールド、それが人間社会なんですか?誰がそんなルール決めたんですか?
還暦過ぎてそんな「青臭い」こと言ってる私はバカなんですかね。
そうかもしれないけど、もしかしたらそういう基本的な疑問を持つ、めんどくさいやつを排除するために…
「そういう考えは青臭い」ということをみんなに刷り込んで、疑問を持たずおとなしくするよう、社会の中で洗脳されている可能性もありますよ。
それで思い出したのは前回の記事でも取り上げた、アニメ『ダンダダン』の第7話です。
神回といわれるこの回をまだ見てなくて、ネタバレを避けたい人はここから先は読まずに引き返してください。
ここで出てくる妖怪?怪異?化け物は「アクロバティックさらさら」という名前なのですけれど…
もともとは離婚した?シングルマザーで、ひとり娘を一生懸命育てている、愛情深いすごく良いお母さんだったんです。
バイト仕事をいくつもかけ持ちして、子どものために夜遅くまで働いて。
(いわゆる「夜職」もやってる)
帰ってくると、寝ないで待っていた娘さんが「ママおかえり!」と抱きついてきて。
このお母さんはたぶん長くクラシックバレエをやっていて…
幼い娘さんもママの見よう見まねをして、家で一緒に楽しそうに踊ったり…
ふたりでご飯を食べたり、お星さまを眺めたり。貧しいながらも、ほんとに平和に暮らしていたのです。
ところがあるとき、借金取り?もしくは父親の回し者?らしき男たちが家に踏み込んできて、娘を奪って行ってしまう。
そのときに止めようとしたお母さんは、男たちから暴力を受けて、はずみで重傷を負って。
「ママー!」と泣き叫ぶ幼い娘…
ぼろぼろになりながら雨の中街に出て娘の後を追って。それでも見つけられず、死んでしまったのです。
そのときの娘を思い、追いかける母の「念」がこの世に残り、成仏できず、いつか恐ろしい化け物に変身してしまった、という経緯。
男から女に向けて振るわれ、ときには意図的に、あるいははずみで、命まで奪うことがある暴力…
その結果、世界では約10分間に1人の女性が、家族やその関係者によって、殺害されているという事実があります。
それが「広い意味でのフェミサイド」と呼ばれる現象です。
アクロバティックさらさらの物語は、そのことを連想させます。
そしてもちろん、先ほども触れた日本社会における、母子家庭の貧困の問題。
また、ここから先は個人的な感想で、作者にはそこまでの意図はないのかもしれませんが…
あんなに愛情深い、なんなら最高のお母さんだった人が、何も悪いことをしていないのに、ただ子どもを守ろうとして必死に生きていただけなのに…
ひたすら過酷な運命の結果、あんなに恐ろしい化け物になってしまうということに、なんとも言えない切なさを感じたのです。
でも世の中って、じつはそういうものなんですよね。
どんな「化け物」みたいな犯罪者や悪人だって、そうなるまでには、親とか家族とか地域とか、そういう生育環境が劣悪だったり…
たまたま運悪く、悪い仲間と出会って、寂しさからついて行ってしまったり、あるいは精神障がいを持っていたり…
そうしたことから悪の道に入ったり、犯罪に手を染めてしまうことが多いんです。
イーロン・マスクみたいな劣悪な性格の人間だって、親に虐待されて育った結果、ああいう人格になってしまったわけだし。
そう考えると、人が「化け物」にならずに済んでいるのは、たまたま運が良かったから、というだけなんではないかと思うんです。
私だって、ここまで生きて来る中でちょっと運命が変わっていたら、犯罪者やサイコパスや、極悪人になっていたのでしょう。
具体的には小学校高学年でクラス全員が参加したいじめにあって、教師もそれを隠蔽して。親に相談したら
「やられたらやったやつにやり返せばいい。お父さんなんか疎開中に、いじめっ子4~5人相手に、竹ぼうき持って叩きのめしたぞ」
相手は45人でしたから。みんなを叩きのめしてまわるには、竹ぼうきの10倍の威力がある道具を使わなきゃな、と思いましたよ。
バットに釘をいっぱい打ち付けたやつとか?
で、教室でそれ振り回して、暴れてやろうかなと。もうこの世で誰も頼りにならないと思い詰めていたから、やけっぱちでね。
実行してたら、まあ児相に送られて、その後は問題児、あるいは不良として名が通って、悪のレッテルを貼られていたでしょう。
そうしたら今とは全然違う人生だっただろうなと。もしかしたらいろいろと悪いこともしてたかも。
悪くなるしかない運命にもてあそばれて、悪くなったり犯罪を犯したりしなかったのは、たまたま運が良かっただけなのではないかと思っています。
それにこれから後だって、どんな事情で自分も悪事に手を染めることになるか、正直言ってわからないんじゃないかと思うんですよ。
誰でも、どんな良い人でも運命次第で「化け物」「モンスター」になり得る。
アクロバティックさらさらの物語は、そんなことにも気づかせてくれるものでした。
だから、裁判官でもない人が、やたら犯罪者を糾弾して「厳罰にしろ!」「極刑だ!」とネットとかで騒ぐのは、正直あまり良い気持ちがしないんです。
自分は「絶対正義」の側に立ったような気持ちになって、悪人をこきおろして。たぶんそういうとき、人の脳の中には快楽物質が出てますよ。
まあ、憂さ晴らしというか一種の娯楽ですよね。
でも、何か運命がちょっと狂っていたら、その人だって悪いことしてたかもしれないし、ひょっとすると今後するかも…いやせざるを得なくなるかもしれない。
だから憂さ晴らし、娯楽で他人を断罪するのはやめましょうよ。
罪を裁くのは、司法の場、法廷に任せましょう。それがちゃんと機能しないとき、警察や司法が悪に加担したり、悪をあえて見逃すとき…
その場合だけ、みんなで声をあげる。それでいいんじゃないでしょうか。
紀元後まもなくの時代、ユダヤ人社会では姦通の罪を犯した者は律法で、石打ちの刑で殺されることになっていました。その現場に出くわしたイエスは皆にこう言った、と新約聖書にあります。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
(ヨハネによる福音書 8-7)