雷の音というより、ものすごい爆発音みたいなのも1回ありました。地響きとともに。すぐ近くに落雷したのかも。
電気もチカチカして停電するかと思ったほど。23年以上住んで一度も停電したことないのに。
東日本大震災後の計画停電さえ、ここには全く影響なかったんですけれど。とにかくものすごい雷でした。
電子機器が壊れなくてよかった。
それはそうと、昨夜は今話題のアニメ『ダンダダン』の7話を視聴しました。
以下ネタバレの可能性ありなので、これからこのアニメを視聴しようと思っている方は、一応読まずにスルーしてください。
今9話ぐらいまで進んでいるらしいですが、息子からこの7話を5回観て、5回大泣きしたと聞いて…
遅ればせながら4~7話まで、妻と一緒に一気見したのです。
我々夫婦も、月並みな表現ですが涙腺崩壊。
母娘の愛がテーマの回だったのですが。
でも女性や子どもへの男性からの暴力や、広い意味での「フェミサイド」(意味がわからない方は検索してみて下さい)への感度次第で、受けとめかたはだいぶ違うかも。
そして自分自身への母親からの愛情について、大きな欠乏感を抱いている私でも、母の思い、親子の情愛についてはちゃんと理解できるのだなと思ってちょっと安心しました。
人間、自分自身が体験したことのない感情は理解できない、なんてことは、全くないのだと改めて実感しました。
私は育児参加、ではなくむしろメインの子育て役として母親みたいなことをしましたけれど、本当の母親ではありません。
男は産めない。妊娠の喜びも不安も、命をかけた出産の痛みも畏れも体験しません。だから、本当の母にはなれない。
それでも、フィクションの話とはいえ母の心に共感することがあり、共感できる。それは大切な心の働きですよね。
それに関連してちょっと話がずれますけれど、考えたこと。
ひとの気持ちを思いやることが大切とよく言われます。それはそう。共感する力が全くないのは、サイコパスですから。
(そういう感じの人間、最近話題の政治家や言論人、ネットインフルエンサーに何人かいますね)
真に他人の気持ちを思いやるためには、想像だけでは不十分です。その人のことをちゃんと理解しないことには、思いやれない。
そのために、人は人を観察し、さらに話しかけて、話を聞き、コミュニケーションをとります。それは当たり前のことのように思えます。
でも一方で、それに反するような通俗道徳があります。親や大人が、子どもに向かってさとすときによく使われて…
かなりの人がそれを受け入れて、自分の信条にしていたりする言葉です。それは…
「自分がされていやなことを、ひとにしてはいけない」
です。
たしかに。自分の気持ちに引き付けてみて、されたらいやなことを他人にするのは、完全なるハラスメントです。
でもここには、大きな落とし穴があります。
それは、されていやなことというのは人によって違うということです。
私なら受け入れられることや、冗談で済ませられること…場合によっては、歓迎さえすることを、別の人は本気で、死ぬほどいやがるかもしれない。
自分の感覚で、相手に良かれと思ってすることが、ひとを傷つけたり、侮辱する結果になったりすることがある。
たとえば贈り物や「付け届け」なんかは、典型的なそれでしょう。
うちの親たちは「付け届け」が好きで習慣化していました。それで何か便宜をはかってもらったり、特別な扱いをしてもらうのが当たり前だと思っているようです。
本人たちも、そういうことをひとからしてもらったら、ありがたく思い良い気分になって、便宜をはかるタイプだからなのだと思います。
でも私がそれをされたら、金品で扱いを変えるような人間だと思われてたんだなと…なめてんのかコラ!と思って、ものすごくいやな気持ちになります。
そういった感じかた受け取りかた、考えかたの違いは、個人的な性格以外にも、性別、年齢(時代や世代)の違い、職業、あるいは生まれ育った場所(文化)によって様々に変わるものです。
自分がされていやなこと(逆にうれしいこと)は、他人も同じだろうというのは、ムラ社会的な閉じられた環境でだけ通用し…
しかもその集団の中で、比較的立場の強い人に許される理屈だと思います。
そもそも、自分に引き付けて「いやなこと、うれしいこと」が他人に対しても同じように通用するかのような考えかたをしていながら、一方で…
男の気持ちは女には決してわからないとか…
こういう気持ちはおとなになってみないとわからないことだとか、いまどきの若い者の考えることはさっぱりわからないとか…
そういうのが、激しく矛盾するということに気づかないのはおかしいと思いませんか?
ひとの気持ちは、その人にしかわからないんです。
いやなことも、うれしいことも人それぞれ。
だからお互いにコミュニケーションをとって、何がいやか、いやでないかといったことを、ちゃんと知ろうとしないとダメなんです。
「自分がされていやなことをひとにしない」という徳目の中には、自己中心的で自己満足な態度が入り込んでいるということを意識しないと。
そうでないと、善意のつもりのハラスメントが、世の中に満ち満ちてしまうことになります。
男と女、年配者と若者、管理する側とされる側、その他収入の違いや人種の違いなど、様々な人々が入り混じって生きながら、本当に思いやり合える世の中にするためには…
腹を割った丁寧な話し合いと、互いに譲り合う精神が必要ですね。