☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
この世は集団ができると、対立が生じ、争いが作られ、相手を貶めるための謀略が生まれる。
戦争と戦後の日本のなかで生きてきた磯辺はそういう人間や集団を嫌というほど見た。
正義という言葉も聞きあきるほど耳にした。そしていつか心の底で、何も信じられぬという漠然とした
気分がいつも残った。だから会社のなかで彼は愛想よく誰ともつき合ったが、その一人をも心の底から
信じていなかった。それぞれの底にはそれぞれのエゴイズムがあり、そのエゴイズムを糊塗するために、
善意だの正しい方向だのと主張していることを実生活を通して承知していた。
彼自身もそれを認めた上で波風のたたぬ人生を送ってきたのだ。
『深い河(ディープ・リバー)』遠藤周作(1996)講談社より
「人は一人では生きていくことはできない」とよく言われますが、誰かと一緒に暮らしていても、孤独を感じることもありますし、一緒にいる相手によっては、「一人で生活した方がよっぽどマシだ!」と思うこともあります。
ただ、社会生活の中で、独り身で居続けることは何かと不利になったり、困難に陥ることもあるようです。
私個人について言えば、少し前にコロナに罹患したのですが、同居している80代の父親と看護師をしている兄に感染させてはいけないと思い、症状も軽かったので、外出禁止と言われた期間中はホテルの予約を取って、部屋に閉じこもって過ごしました。
コロナではない別の病気になったとしても、私の看病をしてくれる家族はいません。(一緒に住んではいてもです。)
兄は仕事に行きますし、父親は昔から子供の看病どころか妻の看病だってしたことはありません。
具合が悪くて寝ている妻を起こして、自分の用事を頼むことはありましたが。
もっとも、大人になれば自分の判断で行動するのが当然でしょうし、どうしても自力では動けない状況でなければ、自分でどうにかするのが一般的なのかもしれません。
いずれにしろ、社会で生活している以上、日々誰かとは会うでしょうし、場合によっては一緒に食事をしたり、仕事をしたり、あまり親しくない人とも同じ時間を共有しなくてはならないことだってあります。
そんな中で、行動を共にする人たちはみな、同じ考えでいなければならないと信じている人が一定数いるようです。
最近よく目にする「同調圧力」という言葉も、そこから来ているものと思われます。
私の父親の口癖は「夫婦は一心同体だ」というもので、よく母親に対して自分の意見を一方的に押し付けては、母を不愉快な気持ちにしていました。
その様子を日常的に見ていた私も同様に不愉快でした。
「何故、父と同じ考えでいなければならないのか?」「父は自分の考えに自信がないから、母を味方にしたいのだろうか?」「誰かに味方になってもらわないと自信が持てない考え自体に問題があるのではないか?」
私は、実際に口に出しませんでしたが、父の態度について思うことが沢山ありました。
しかし、そんな理屈が父に通用しないことが分かっていましたし、私が自分の意見を主張することが父の機嫌を損ね、暴言を吐かれたり、最悪の場合暴力を振るわれる可能性があったので、私はいつも不愉快な気持ちのまま黙っていました。
家族は社会における小集団の一つです。
少人数でありながら、そこには社会での人間関係の縮図が出来上がるものだと私は感じています。
もちろん、そんなややこしい考えなど必要のない愛情に満たされた、あるいは平和な家庭も世の中にはあるとおもいます。
『深い河(ディープ・リバー)』の中で、磯辺が社会生活を送る際に感じた「何にも信じられぬという漠然とした気分」を、私は家族との関係で嫌というほど経験しました。
人のエゴイズムを認めながら、波風のたたぬ人生を送ってきたということにも共感を覚えます。
そうしなければ、私も家族の中で生きてこられなかったからです。
人間社会の中で苦しい思いをしている人は昔からいますし、今もなお、つらい状況から抜け出せずにいる人もいます。
そして、そのことについて、誰かにつらさを打ち明けたとしても、「じゃあ、そこから出て行けば?」とか「嫌なら辞めればいいじゃない」と、その場からの退場を促されるだけなのです。
今ある自分の居場所や役割を自ら進んで失いたい人がいると思いますか?
また、経済力や社会的信用度のない人間が、社会の中で独力で生きていけると思いますか?
その人を苦しめている問題の原因には言及されずに、苦しんでいる側が非難される傾向はおそらく昔から日本の社会では「よくあること」で、時代によってはそれが当然だと社会全体に受け入れられていたと思います。
しかし、今になってやっと、それではダメだと言う声が次第に大きくなってきている印象を受けるのです。
それは、社会全体の経済状況の変化や、格差や差別の問題で苦しむ人の数、あるいは苦しみを感じる人の数が増えたからかもしれませんし、インターネットやSNSの普及で、一般の人でも声を上げやすくなっているからなのかもしれません。
自分の中では善意であり正義であっても、他人から見ればそれはただの「エゴイズム」にすぎないのです。
私がこうして、くだらない言葉を書き連ねているのも、私の「エゴイズム」にすぎません。
私は自分の「エゴイズム」を父のように誰かに押し付けることはしたくないですし、するつもりもありません。
ただ、たまたまこの記事を目にして下さった人が、人との関わり方について考え、社会の様々な問題に対して何か行動を起こすきっかけになったらいいなと、密かに淡い期待を抱いてはいます。
ヒトコトリのコトノハ vol.61
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
この世は集団ができると、対立が生じ、争いが作られ、相手を貶めるための謀略が生まれる。
戦争と戦後の日本のなかで生きてきた磯辺はそういう人間や集団を嫌というほど見た。
正義という言葉も聞きあきるほど耳にした。そしていつか心の底で、何も信じられぬという漠然とした
気分がいつも残った。だから会社のなかで彼は愛想よく誰ともつき合ったが、その一人をも心の底から
信じていなかった。それぞれの底にはそれぞれのエゴイズムがあり、そのエゴイズムを糊塗するために、
善意だの正しい方向だのと主張していることを実生活を通して承知していた。
彼自身もそれを認めた上で波風のたたぬ人生を送ってきたのだ。
『深い河(ディープ・リバー)』遠藤周作(1996)講談社より
「人は一人では生きていくことはできない」とよく言われますが、誰かと一緒に暮らしていても、孤独を感じることもありますし、一緒にいる相手によっては、「一人で生活した方がよっぽどマシだ!」と思うこともあります。
ただ、社会生活の中で、独り身で居続けることは何かと不利になったり、困難に陥ることもあるようです。
私個人について言えば、少し前にコロナに罹患したのですが、同居している80代の父親と看護師をしている兄に感染させてはいけないと思い、症状も軽かったので、外出禁止と言われた期間中はホテルの予約を取って、部屋に閉じこもって過ごしました。
コロナではない別の病気になったとしても、私の看病をしてくれる家族はいません。(一緒に住んではいてもです。)
兄は仕事に行きますし、父親は昔から子供の看病どころか妻の看病だってしたことはありません。
具合が悪くて寝ている妻を起こして、自分の用事を頼むことはありましたが。
もっとも、大人になれば自分の判断で行動するのが当然でしょうし、どうしても自力では動けない状況でなければ、自分でどうにかするのが一般的なのかもしれません。
いずれにしろ、社会で生活している以上、日々誰かとは会うでしょうし、場合によっては一緒に食事をしたり、仕事をしたり、あまり親しくない人とも同じ時間を共有しなくてはならないことだってあります。
そんな中で、行動を共にする人たちはみな、同じ考えでいなければならないと信じている人が一定数いるようです。
最近よく目にする「同調圧力」という言葉も、そこから来ているものと思われます。
私の父親の口癖は「夫婦は一心同体だ」というもので、よく母親に対して自分の意見を一方的に押し付けては、母を不愉快な気持ちにしていました。
その様子を日常的に見ていた私も同様に不愉快でした。
「何故、父と同じ考えでいなければならないのか?」「父は自分の考えに自信がないから、母を味方にしたいのだろうか?」「誰かに味方になってもらわないと自信が持てない考え自体に問題があるのではないか?」
私は、実際に口に出しませんでしたが、父の態度について思うことが沢山ありました。
しかし、そんな理屈が父に通用しないことが分かっていましたし、私が自分の意見を主張することが父の機嫌を損ね、暴言を吐かれたり、最悪の場合暴力を振るわれる可能性があったので、私はいつも不愉快な気持ちのまま黙っていました。
家族は社会における小集団の一つです。
少人数でありながら、そこには社会での人間関係の縮図が出来上がるものだと私は感じています。
もちろん、そんなややこしい考えなど必要のない愛情に満たされた、あるいは平和な家庭も世の中にはあるとおもいます。
『深い河(ディープ・リバー)』の中で、磯辺が社会生活を送る際に感じた「何にも信じられぬという漠然とした気分」を、私は家族との関係で嫌というほど経験しました。
人のエゴイズムを認めながら、波風のたたぬ人生を送ってきたということにも共感を覚えます。
そうしなければ、私も家族の中で生きてこられなかったからです。
人間社会の中で苦しい思いをしている人は昔からいますし、今もなお、つらい状況から抜け出せずにいる人もいます。
そして、そのことについて、誰かにつらさを打ち明けたとしても、「じゃあ、そこから出て行けば?」とか「嫌なら辞めればいいじゃない」と、その場からの退場を促されるだけなのです。
今ある自分の居場所や役割を自ら進んで失いたい人がいると思いますか?
また、経済力や社会的信用度のない人間が、社会の中で独力で生きていけると思いますか?
その人を苦しめている問題の原因には言及されずに、苦しんでいる側が非難される傾向はおそらく昔から日本の社会では「よくあること」で、時代によってはそれが当然だと社会全体に受け入れられていたと思います。
しかし、今になってやっと、それではダメだと言う声が次第に大きくなってきている印象を受けるのです。
それは、社会全体の経済状況の変化や、格差や差別の問題で苦しむ人の数、あるいは苦しみを感じる人の数が増えたからかもしれませんし、インターネットやSNSの普及で、一般の人でも声を上げやすくなっているからなのかもしれません。
自分の中では善意であり正義であっても、他人から見ればそれはただの「エゴイズム」にすぎないのです。
私がこうして、くだらない言葉を書き連ねているのも、私の「エゴイズム」にすぎません。
私は自分の「エゴイズム」を父のように誰かに押し付けることはしたくないですし、するつもりもありません。
ただ、たまたまこの記事を目にして下さった人が、人との関わり方について考え、社会の様々な問題に対して何か行動を起こすきっかけになったらいいなと、密かに淡い期待を抱いてはいます。
ヒトコトリのコトノハ vol.61
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます