2015.7.26の記事を再掲します。
スパイとして日本軍に殺害された住民もいたということだけは聞いていましたが詳しい話は知りませんでした。
当時の責任者だった守備隊のトップであったK兵曹長は、
戦後、裁判にかけられなかった。
罪悪感は持っていないようです。
2歳の子供も含めて住民を虐殺しながら自らの部隊は自決も玉砕もしなかった。
今からでも裁判にかけて罰することはできないのか。
悔しいです。
参考ウェブサイト
http://keybow.co/sundaymainichi/kayamasyuki.html
上記ウェブサイトより引用しました。
中村 鹿山君!私、いまそこにいれば、あんたをやつざきにしてやりたいよっ、そう思いませんか!(鹿山元隊長は中村さんの怒声にびっくりしたように「そう思います」(と小声でボツリ)二歳になる乳のみ子まで殺して、それで海軍といえるか! そう思わないか!報道でおまえが生きていることを知り、反省してないことを知って私は夜も授つかれない。おまえの久米島でやったことはなんだ! あれが人間のやることか!そう思わないか!(激しい口調に鹿山元隊長はますますうなだれる)うちの明勇(仲村渠明勇さん)が殺されたときは、もう戦争終わっておる(明勇さん一家三人が刺殺焼打ちされたのも、谷川さん一家同様に終戦後で八月十八日)戦争終わっとって、どうしてあんな処刑なんぞしたんだ。殺して火をつけて火葬なんてもってのほかだ。一般が疎開して兵隊が戦うのが日本の陸海軍であるはずじゃなかったか。……キミみたいなのが軍隊におったから、沖縄に自衛隊が来たら、またああいうことせんか思って自衛隊に反対してるんだ。(鹿山元隊長は終始無言……)
以下は、ウィキペディアより引用しました。
久米島守備隊住民虐殺事件(くめじましゅびたいじゅうみんぎゃくさつじけん)は、太平洋戦争(大東亜戦争)時における沖縄戦の最中から終戦後に発生した、日本海軍守備隊による同島民の虐殺事件。久米島事件とも呼ばれる。
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拉致された住民は6月26日、アメリカ軍の上陸時に一緒に解放されたが、守備隊の鹿山兵曹長は拉致被害者に対し、アメリカに寝返ったのではないかという疑問を抱き、まず6月27日のアメリカ軍上陸時に、自宅から避難壕へ逃げる際に拉致され、山中の兵曹長の分遣隊へ降伏勧告状をもっていくように命令され、部隊にやってきた久米島郵便局の電信保守係(郵便局長という説もあり)であった安里を銃殺刑に処し、6月29日には工作部隊によって拉致(治安悪化を理由にしたとも)されていた区長の小橋川と区警防団長の糸数盛保の2家族9人を処刑し、その遺体を家屋ごと焼いた。
また兵曹長による刑罰はその後も続き、アメリカの上陸部隊によって部下の兵士と義勇兵を「斬込隊」としてアメリカ軍に特攻させて、生きて帰ってきた部下を「処刑」した。ほか、アメリカ軍からの投降を呼びかけるビラを持っていたり、投降しようとした者についてもスパイもしくは利敵行為(戦前の刑法では罪となった)であるとして処刑を行った。兵曹長は守備隊の最高司令官として徹底抗戦の構えをみせ、山にこもって戦うように住民に指示し、従わないものは処刑すると警告した。
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守備隊は8月18日には一家4名を処刑したほか、さらには兵曹長が若い女性を連れて(人質にしたという説もある)行軍していた一方で、物資を奪う目的で具志川村字上江洲に住むくず鉄集めで生計を立てていた朝鮮人谷川昇一家(朝鮮名は不明)を住民と部下に命令して8月20日に子供も含めて惨殺したという証言もあり、現在ではその事実を示す慰霊碑があるという。この行為は日本が降伏した8月15日以降の出来事であった。そのため、海軍刑法が禁ずる停戦命令後の私的戦闘の疑いもある。
9月になるころには、昭和天皇による玉音放送で『終戦詔書』が伝達されている事実をしらされたこともあり、守備隊も最後は全面的に降伏した。最終的に守備隊が処刑した5件で住民は22人(一説では29人)であり、そのため住民は侵攻してくるアメリカ軍だけでなく日本軍によって生命を奪われたわけである。また守備隊の中にも命令に服従しなかったとして3人が処刑された。そのなかには前述のように突撃命令で特攻し、生還した兵士もいた。