天皇裕仁と東久邇盛厚が差し向けた「密偵」は、何度も私の家を襲って来た。玄関前で遊んでいると、突然、物陰から兵隊服の男が飛び出して来て、青酸カリの丸薬を飲まされそうになったこともある。また、気がつかない間に男が家の中へ忍び込んでいて、痺れ薬を塗った針で刺されたこともある。夏に海水浴に行った時は、浜辺で日光浴をしていた男が走り寄って来て、海中で毒ガスを嗅がされて、溺死しそうになった。
しかし、私は生き延びた。子どもの強靭な生命力が目に見えない先祖の加護となって、私の身体を包んでいたのかも知れない。殺されたのは父親である。
或る夜半、物音で目を覚ますと、すでに四人の「密偵」が勝手口から台所へ侵入していた。母と弟は土間の暗がりで倒れており、父は板間で正座させられて、灰色の兵隊帽を深く被った男に毒針で頭頂部を何度も刺されていた。四回か、五回刺された時、父の身体が座ったまま、前のめりに倒れた。
私は電話がある玄関のほうへ走った。が、すぐに背後から別の男に捉まって、脚を、青酸カリを塗った針で刺された。激痛が一気に膨れ上がって、悲鳴が頭蓋を突き破ると、今度は麻酔薬を注射された。以前に自衛隊基地で殺されそうになった時、私の叫び声が廊下まで響いたため、「密偵」らは必ず強い麻酔薬を用意していた。
地獄の泥沼へ沈み込むような数秒間は、苦痛が遠のくだけ「幸福な気絶」と言えるが、勿論、これは一時のことで、そのうち麻酔が切れて来ると、脳の深淵から泡が湧くように再び激痛が襲って来る。麻酔が完全に切れてしまう前に、電話まで行き着かなければならなかった。距離はほんの五、六メートルだったが、それは私が前方へ伸ばした手の彼方の、絶望的な闇の中にあった。
私は意を決して、起き上がった。しかし、受話器を掴んだと思った瞬間、焼けた鉄棒が私の体に突き刺さった。絶叫とともに、玄関のタタキへ転げ落ちて行った。それを合図に、男らは裏口から逃げ去り、騒ぎを聞き付けた隣家の人の呼び声が玄関の外で聞こえた。
その後も、父は夜間に帰宅するところを毒ガスで襲われた。父を診察した町医者は、血圧が異常に高いと言ったが、それから一年くらい経って、脳梗塞で死んだ。初七日が済んだ頃、和服を着た女が訪ねて来て、畳に崩れるように伏している母の前に、青酸カリを一粒、置いて行った。
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高校への入学準備のため、自分で申請して入手した戸籍簿を見て、私は衝撃を受けた。父はその後、伯父に付き添われて、遠い街の病院まで精密検査に行ったのだが、日帰りが難しいために病院近くの宿泊所に泊ったところ、その宿で、父の病状は一層悪くなった。すぐに入院したが、そのまま昏睡状態に陥り、数日後の深夜、棺に入れられて帰宅した。
戸籍簿には、次のように記載されていた。「遊街の宿にて賃貸の夜具にくるまり、懇意にしていた女に世話をさせた後、悶死した」
私は謄写のインクが滲んだ文字を何度も読み返した。役所の男が薄笑いを浮かべて、「すでに記載したから、もう直せない」と言う声が、耳鳴りのように響いた。その男も・・・、また、その隣に座っている女も・・・、たぶん、この国の人間全部を、私は叫びたいほど憎悪している。