いつの間にか、玄関の板張りに、白い表紙の写真集が一冊置いてあった。
私が三歳から高校生になる頃までに、幾度となく皇居へ拉致され、虐待されたところを、宮内庁が写真に撮ったものだ。
表紙をめくると、最初のページは髪をショートカットにした中学生の私である。
十三歳で、天皇裕仁に、麻酔薬を二本も下腹部に注射されて強姦された。その翌年のこと、私は再び皇居へ拉致されたのだが、裕仁はとうとう(勃起剤を注射しても)性交不能になってしまい、それに腹を立てて、護衛官の一人に私を下賜すると言ったために、今度はその男に弛緩剤を打たれて強姦されたのだった。すべて皇居内での出来事だ。訴える所も無く、ただ泣き叫ぶだけの売春宿の様だった。
当時の大方の中学生がそうであったように、私は性行為についてまったく無知な子供だったので、その時、股が裂けるように痛む以外には、自分の体にいったい何をされたのか、よく理解できなかった。
写真に映っている少女は、どことなく浮かない顔をしている。
二枚目の写真は、高校へ入学した直後の、十五歳である。体育の授業で穿く白いショートパンツ姿で自宅に居たところを、そのままの格好で、皇居へ連れ去られた。私を拉致するよう命令したのは東久邇盛厚の息子らで、これに従属していた学習院高等科の学生、五、六人が加わっての強姦未遂だった。
未遂で終わった理由は、単に、私が着ていたブラウスのボタンが小さ過ぎて外し難かったのか、それとも、麻薬を常用していた少年らにも、特別な理由が・・・たとえば罪悪感とでもいったものが・・・あったのかどうか判らないが、私のほうは相当な精神的ショックで、突然、月経が始まってしまった。
それで、この時、私が穿いていたショートパンツの尻には赤黒い染みができていたはずなのだが、宮内庁監修の写真集では奇麗に修正されていた。
月経が終わった一週間後に、また拉致された。(この時も、私は以前と同じ体育用のショートパンツを穿いていたのだが、それはただ少女の当然の気持ちとして、スカートを穿きたくなかったからである。)護衛官は睡眠薬の注射器で私を突きながら、皇居の普段は使用していない薄暗い部屋に私を入れると、ぼんやり立ちすくんでいる私のショートパンツの前ファスナーを指で摘まんで、素早く引き下ろした。そして、私が慌ててファスナーを上げようとして、片手で前部分を押さえた瞬間を、まるで「下げている」かのようにカメラで撮った。実際、私は一旦はファスナーを最上部まで引っ張り上げることができたのだが、護衛官に毒針で尻を刺されて、また引き下げられたのだった。
それから、その男は「もう一度上げてみろ。」と言った。脱力した手で、私はファスナーを上げようと試みたが、何故か、急に噛み合わせが悪くなっていて、上にも下にもびくとも動かなかった。男は二度目にファスナーを引き下げた時、素早く、速乾性の接着剤を塗ったのだった。五、六名の皇宮護衛官に囲まれた中央で、ショートパンツの前を大きく開けて、そこから木綿のパンティを覗かせている少女の写真ができた。(写真集では、ご丁寧にも、パンティの上に陰毛らしい線が何本か描かれていた。)
私は、恐る恐る、「安全ピンを一つ欲しい」と要求してみた。勿論、どうしようもなく大口を開けているファスナーを塞ぐためである。すると、護衛官は5センチほどもある業務用の安全ピンを私の目前に見せて、次の瞬間、それを私の性器に突き刺した。ピンには彼らが頻繁に使っている神経性薬剤が塗られていたので、激痛と同時に、私は盲目になった。男は嗤いながら、もはや処女ではない私の性器には大した価値が無い、という意味のことを言った。
その時、見えない私の両目から、大粒の涙がぽろぽろ落ちた。男は急に黙り込んだ。しかし、男の次の行動は私が予想していたものとは違った。男は、私のショートパンツの口に指を差し入れて、性器の膨らみを撫で回したのだ。
「痛かったか?・・・」 小さい子供が怪我をした時に母親がよくやるように、男は痛い個所を撫でているのだった。
私が返答をしないでいると、男の口調はきつくなって、「痛かっただろ。お前が痛がったから、撫でてやっているんだ」と説明した。
それから、年月が過ぎて、成人した私は或る男性と性行為に及ぶ際にふっとこの男のことを思い出して、まさに衝動的に相手の性器を針で突き刺すところだった。性の技巧ではなく、一瞬、憎悪の錯乱に落ちたのだ。
写真の少女は、まるでアイドル歌手のように、暗闇の中で丸いスポットライトに照らし出されて・・・汚れた体育用ショートパンツの、口を開けたファスナーの片側に、大きな安全ピンをぶら下げている。