AV女優・紗倉まな、男子東大生に恋愛指南 「過去の男性経験も、その相手を形作っている。水に流して未来に進むしかない」(twitterの投稿より)
ルキノ・ヴィスコンティの映画『家族の肖像』のラストシーンにこういうセリフがありました。
放蕩ばかりの若者達にたいして主人公の老人がこう伝えます。
「君たちを家族と思うことにした。そう思えば、どんなことも許すことができる」
愛とは許すものです。
無償の愛といえば、キリスト教の中心的な概念です。
日本でも悪人正機説の浄土真宗は似たものを感じます。
許す愛とは宗教的あるいは家族的な愛に置き換えられると思います。
一方で愛するがゆえに許せないこともあります。
例えば、恋人の浮気が許せる人はあまりいないと思います。
許せない愛は主に恋愛に置き換えられそうです。
でも、どうもこっちの愛はひとつめの愛と比べるとイメージが良くありません。
言ってみればただのワガママのような気がします。
しかし、これはこれでやっぱり愛のカタチだと思います。
何でもいうことを聞いてくれる優しいだけの男性に魅力を感じる女性はあまり多くありません。
それなら恋人に「君は僕だけのものだ」「こうして欲しい」と多少ワガママを言われたほうが嬉しいです。
とどのつまり恋人に求めるものは結局は全てエゴです。
「おっぱいが大きい」「背が高い」あるいは「人格が尊敬できる」だって、全て自分の恋愛感情を満たすためのエゴといえます。
ただ、その裏返しとして上記事のような問題も起こります。
恋人の過去も「許す」のが真の「愛」なのだと言うのが今の主流です。
そんな恋愛すら家族的な愛になった世界は素晴らしいですが、ちょっと退屈かもしれません。
ある意味でその人の個性とはその人が許せないものの集合体であり、エゴで成り立つものと言えますから。