
Dao khanong AKA By the Time It Gets Dark
タイ語でDaoKhanong(タイ語:ดาวคะนอง)として知られる「暗くなるまでに」は、AnochaSuwichakornpongが監督した2016年のタイのドラマ映画です。 2016年のSuphannahongNationalFilm Awards forBestPictureを受賞しました。また、第90回アカデミー賞の最優秀外国語映画のタイのエントリーにも選ばれましたが、ノミネートされませんでした。 1976年のタンマサート大学の虐殺は、この事件についての映画を制作するために働いている何人かの個人を通して経験されています。(Google翻訳)
タマサート大生虐殺という事件、いやタイでは共産主義者との戦いという扱いで当時はベトナム戦争の米国敗退でタイの共産化ドミノを警戒するタイ国軍と王政の存続の危機感が今とは全く違う空気だったのだろう。今でもサンデーマケットの中でフォーク歌手が歌っているのを聴いていると私服の公安が血眼になって逮捕しようとする光景が目にするが全く何も変わっていない気がする。それでもコロナ前の高校生により始まった反タイ王室運動では母親も一緒にデモに加わ流ようになったのは凄い変化だ。
自分の経験は1992年のあの歴史的な国王裁定を自宅のテレビの生放送で見ていたが、勿論夜は外出禁止だが、昼間は自由に歩けてあの悲劇のロイヤルホテルの最前線でデモ隊と軍部の動乱をただ眺めていたが、立ち入り禁止のロイヤルホテルに立ち籠った若者を無差別にあのISの処刑スタイルで後ろから銃で撃ち殺した大量殺人を知ったのはニュースや屋台で売られていたビデオだった。政府は正式にこの事件を認めてはいないので確か500人くらいと言われている。そして遺体も何も遺族には渡されず、情報もナシという状況が何年も続いたが確か5年ほど前にパタヤ近くの海岸に大量死体が積まれたコンテナが打ち上げられたというニュースがあった。この検死を担当することになったタイの女性の検視官は頭髪を5色に染めている有名な女史だったが、発表された内容は全くロイヤルホテルとは無関係というものだったが、それでは誰の骨なのはジャーナリストでも聞こうとしなかったのは全くタブーだったのだろう。
映画の撮影されたホテルはチェンマイ郊外にある古い建物をリノベーションしたもので、確か電気もないので夜は全くネパールの山の中のように瞑想するしかないので、「暗くなるまで・・・」という題名なのかもう少し見ないと何も書けないが、こういうバンコクの人が話す言葉は全部わかるので、英語との違いを考えながら合掌。
王朝の代も変わり時代の流れなのか、こういう事件の映画が街に、そして世界に流れて評価されるのは忘れ難いトラウマの記憶だ。しかし、依然とタイは軍政。選挙で若者の支持を集めた「未来へ党」の勝利に重箱の隅を突くような選挙違反を盾にタナトーン党首を弾圧しまさしく未来への希望を摘み取ってしまった。最近はデモ隊へラオスから狙撃兵を雇いタイ貢献党の支持者を狙い撃ちにするなど自らは手を汚さないという卑劣さは類を見ないほど軍や王政の支持を失っている。
なんでもないバンコクの町を歩いてみると、至る所に人心の疲弊したゴミや瓦礫が歩道に放置されているのは前国王の時代には見かけなかった。町の住民が丁寧に掃除する気になれないのだろう。(続く)
(続き)
こういう映画を作り上げる気力は、子供の頃に訓練した念力のおかげなのか。ほんの青春時代の一時期に遭遇した悲劇のトラウマはその後の人生を左右し得る大きな個人的な事件なのだ。タマサートとチュラ大の違い。チュラ大を卒業した在タイ日系人から聞いたことがあるが、この国では想像以上に大きな意味と価値があるというのはまさに見えている手なのだろう。ベトナム戦争当時、メコンの上を飛んで観光旅行をした無邪気な自分に恥じる。大きな悲劇はあっても日常生活も人生も続く。不本意に生きる意味や目標を失い、下働きに甘んじていても故郷には自然も食べていくだけの産業はある。自分も農村の道を永遠に移動するのは好きだし、炊き立ての餅米の匂いが食欲をそそる。時代は変わり、バンコクの投資ブームや屋上にプールのあるホテル。しかしトラウマを負ったエリート達の人生はさぞある種の生き難たさを持ち続け、こうした映像で自分と対話する。市場で見かける乾燥バナナは葉が青々しいが、この工場では何か薬の原料にでもなるのか電源も何もないような乾燥室でどういう製品になるのだろうか。それこそ我々の姿なのだ。
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