慶春公園
2020/12/29(火) 晴/曇
今日の最高気温予想18°出発時の気温8~10°、目的地を山鹿市鹿北町芋生の慶春公園として、10時過ぎにポタリングに出発する。
熊鹿ロードを北へ走る。出発時は少し寒かったが、正午のチャイムを聞く頃にはちょうど良いくらいの暖かさになった。
熊鹿ロード終点から国道3に出て昼食を済まして、更に北へ走る。
三岳小学校まで来れば目的地は近い。
目的の慶春公園(写真1参照)は、国道3左側の砕石工場の車両出入口の西側にある。
公園と言っても広場はなく、「慶春」を顕彰する数基の石碑あるのみの小公園(写真2参照)である。慶春の碑・慶春待ちの碑は山鹿市指定文化財である。
説明盤(写真3参照)、「慶春公園
紙漉師「慶春」は、1598年加藤清正公が朝鮮(韓国)から引揚げの際伴われて紙漉きの技を教え伝えさせた人である。この事により、鹿北町、三加和町等に和紙生産の業が広まり、山鹿の和傘や鹿本町の団扇作りにも大いに寄与し経済的にも豊かになった。
また加藤・細川藩の御用紙漉師として、扶持米や居屋敷を与えられ藩用紙も献納していた。
当公園地を「慶春待ち」と称し、慶春一行の当地到着を村人が待ち受けた所である。
慶春関係の碑や墓など谷地に分散し、めったに訪れる人も無くその存在すら忘れ去られようとしていた。
1998年慶春関係についての公園整備が策定され、「慶春の碑」を細永より、「道勤の墓」を山下より、「葍春の墓」を川原谷共同墓地から、また「慶春待ちの碑」を当地大木の根元よりそれぞれ移転し、朋に「慶春公園」として整備したものである。」とある。
慶春待ちの碑(写真4参照)。標柱の銘文
「川原谷の村人が紙漉(かみすき)職人の慶春一行を待ち受けた記念に建てられた碑です。慶春らは川原谷に移住し、紙漉をこの地域の主産業まで発展させました。この碑はもともと、この場所よりももっと山手にありました。」とある。
慶春の碑(写真5参照)。標柱の銘文
「安土桃山時代、加藤清正が朝鮮出兵から引き揚げるとき連れてきた紙漉職人、慶春の墓碑です。細永集落の竹林の中にあったものを、この公園整備のときに移築しました。」とある。
道勤の墓(写真6参照)。標柱の銘文
「慶春の子といわれる道勤の墓碑です。道勤は、山下の小坂井手隧道の掘削中、岩野川へ転落死したという言い伝えがあります。山下墓地にあったものを公園整備のとき移転しました。」とある。
葍春(ふしゅん)の碑(写真7参照)。標柱の銘文
「慶春の子孫ともいわれる葍春の墓碑です。川原谷地区の共同墓地にあったものを現地に移転しました。」とある。
少し離れた所に、以前の説明板(写真8参照)がある。
現在時刻13時半、夕方から天候が崩れるとの予報に余裕をもって帰途に就く
今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)42km→慶春公園40km→熊本(自宅)
所要時間6時間(実5.5時間) 総計82km 走行累計37,517km
本年も、ご訪問頂きありがとうございました。(12/30)
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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