紅葉が残る立田山
2022/12/20(火) 晴/曇
今日の早朝の最低気温は-1°と冷え込んだが、最高気温予報11°と暖かくなりそうなので陽が射して暖かくなった午前11時半からポタリングに出る。
目的地を、先日本妙寺山から眺めた熊本城の左側に見える建物の確認と、立田山とする。
往路は、上熊本から西方寺坂を登り、熊本城に向かう。上熊本から京町台に登る坂は幾筋かあるので、後日探訪することにする。
熊本城は宇土櫓の前まで行ったが市街地を眺望する場所が見当たらず、棒庵坂まで引き返し少し下った所からの視界に先日の写真にあるところの建物(写真1参照)が見えた。
その後、電車通りまで下り再度確認したところ、通町筋バス停前のホテルだった。
万石からの道が国道3交わる所の総合病院の横から道を辿る。「思索の森への径、多くの人材を世に出した木下韡村(いそん)へのご案内」(写真2・3参照)という看板が目に留まった。
「この石段を登って行くと、藩校時習館の訓導木下韡村が立田山の木立のなかに眠っています。文化二年(1805)、菊池郡今村(現菊池市)の庄屋の家に生まれ、学問を好みました。名字帯刀を許され、時習館居寮生となり、江戸に留学、藩主斉護の伴読に抜擢され、中小姓格に列せられ、世子慶前の教育に当たります。
江戸では佐藤一斎、松崎慊堂らに学び、学問仲間に安井息軒、塩谷宕陰らがいます。
嘉永元年(1848)、慶前が若くして亡くなったため、熊本に帰り、藩公認の家塾「韡村書屋」を開き、時習館の訓導となりました。藩外からの塾生も多く、三十九藩百四十八人に及んでいます。幕府から昌平坂学問所教授の声がかかりますが、辞退します。塾の雰囲気は自由闊達で様々な個性あふれる人材が育ちました。
明治憲法を草案した井上毅、外交官で漢学者の竹添進一郎(嘉納治五郎の岳父)、一高校長として夏目漱石を教えた古荘嘉門、明治天皇の侍従米田虎雄、敬神党の斉藤邱求三郎、民権派の宮崎八郎、有馬源内(熊本市議会初代議長)、医学者北里柴三郎も学んでいます。京都帝大初代総長木下広次は韡村の子です。作家木下順二もその一族です。
慶応三年(1867)五月六日逝去、名は業廣、字は子勤、号は韡村、犀潭、通称宇太郎のち真太郎。」とある。
石段を登ってみた。水道局の配水池敷地(写真4・5参照)に出た。
敷地からの眺望は良い。写真中央は、大江のタワーマンションか。左側の高層ビルは熊本大学校舎と思う。
一旦石段を下り、配水池門(写真6参照)の所から立田山に登る。
豊国大明神の横を通り、山頂(写真7参照)に到着する。
14時前下山開始、帰途に就く。東方向に下山しようと自転車を押して登ってきたが、万石方向に下山することにする。
「秋の森」の標識があったので、通って下山しようと思い歩を進めるとクヌギ林(写真8参照)の所を通る。
クヌギ林が「秋の森」かと思っていたら、もう少し下りモミジ類の紅葉(写真9・10・11参照)を見ることが出来た。
説明板(写真12参照)があり、ここが「秋の森」であることを認識する。ここには秋が未だ残っていた。
紅葉(写真13・14参照)は未だ続き、その先はサザンカの花が山道を彩る。
お祭り広場に出て万石方向へ下る出口近くに、メタセコイアの木が三本(写真15参照)見えた。14時過ぎ帰途に就く。
15時半前に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)10km→立田山9km→熊本(自宅)
総所要時間4時間(実2時間) 総計19km 走行累計52,027km
所要時間2(実1.5)時間 歩行した標高差約130m
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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