2022/4/3(日) 晴
今日の最高気温予想20°目的地を八代市鏡町の市指定史跡鹿子木量平・兼之助の墓のある文政神社及び岩永三五郎の墓を主とし、往路に二本木の六地蔵に立寄り、帰路に宇城市不知火町の御領菅原神社に立ち寄る予定で、11時前からポタリングに出る。
新幹線側道を南進し二本木2丁目の龕部から上が鎮座する六地蔵(写真1参照)に立ち寄る。
龕部(写真2参照)は、凝灰岩製で彫が深く、一部欠損があるもののしっかりしている。傍に小さな石造の地蔵尊四体が鎮座する。
国道3松橋バイパスから宇土市立岡公園の桜(写真3参照)を遠望する。早くも半分ほどの葉桜になっている。
島地八幡宮を後にして、氷川左岸を下り八代市指定史跡岩永三五郎の墓(写真10参照)に移動する。墓所には三五郎の像もある。
墓石(写真11参照)には、嘉永四年(1851)の没年が刻んである。
説明板(写真12参照)には、「岩永三五郎は、寛政5年(1793)氷川町野津に生まれ、後に鏡町の芝口に移住して来ました。当時、肥後の名石工といわれ、特に石橋(眼鏡橋)の築造について優れた技術をもっていました。岩永三五郎が築造に携わった代表的な石橋として、熊本で最初に架設された用水橋である雄亀滝橋(美里町)などがあげられます。
また、砥用、矢部、種山、葦北等、熊本県内各地に優れた石工の技術を伝えました。鏡町にただ一つ残っている監内橋も岩永三五郎の作と伝えられています。
岩永三五郎は、熊本での石橋架橋の技術が高く評価され、薩摩(鹿児島県)に招かれて多くの石橋の建設に携わりました。特に、わが国最初の他連式アーチ橋である、甲突川五橋の建設が有名です。
岩永三五郎は、石橋架橋だけでなく、干拓事業に関しても大きな役割を担っていたと考えられます。岩永三五郎に代表される石工たちは高い石材加工技術を活かし、用水路・樋門・橋の建設などに関わっています。その中でも、文政4年(1821)に行われた、七百町新地の干拓事業に参加したことは、これまでの文献調査からもわかっています。
数々の偉業を成し遂げた岩永三五郎は、嘉永4年(1851)59歳の時、この芝口で世を去りました。」とある。
岩永三五郎の墓所を後にして、文政神社(写真14参照)に移動する。
三基の墓塔(写真14参照)が、並んでいる。
中央の墓塔が八代市指定史跡鹿子木量平の墓(写真15参照)
説明板(写真16参照)には、「一、鹿子木量平は隈本城主鹿子木寂心の遠孫であると言われる。宝暦三年(1753)飽託郡五丁手永鹿子木村に生まれた。
雲仙岳大爆発の事後処理に抜群の力量を発揮し、その手腕を認められ、文化元年(1804)五月、野津手永惣庄屋兼代官の辞令を受けた。
二、着任早々、鏡村と内田村は魚商生活者が多く、田畑も大部分が湿地田であることが「御国一貧地」といわれる根本原因であることをしたのであった。
彼は早速、百町新地を干拓したいと人柱の誓願を立て松村郡代に熱望した。この訴えを伝え聞いた富豪の緒方吉次らは協力を申し出、「新築料下方才覚」を整え、添書を作成し松村郡代に会ったのである。郡代も大いに喜びこれを藩に送付した。
三、文化十四年(1817)野津手永に所替えとなった量平は七月一日付で大牟田新地根役を命ぜられた。八代郡三手永の御用掛はそれまで精励していたが、反対者の訴えにより十月止方になった。十一月になって新築の許可が下りたので、あちこちに割り出しておいた石を取り寄せ築き立にかかり、文政二年四月上旬までに潮丈よりも高く築き上げたのであった。九月二十四日潮留を完成させた。四百町新地成就である。
樋門には、巨石を使った堅牢な備前流の「大鞘樋門」を設け、これまでの御国流と比べて革新的技法を取り入れている。
四、七百町新地の干拓は「五難のさわり」などの障害があり、計画は始めから難渋し順調に進展しなかった。
量平、兼之助父子はこれらの苦難を乗り越え、文政四年十一月二十五日、年内潮留めに成功したのである。
潮留めの碑の朝、量平のいでたちは白装束で船内に置かれた三方には白鞘の刃が乗せられていた。「君がため惜しからざりし命なれば、今にいばりの柱とぞなる。」
量平は辞世の歌を懐に秘めて潮留めの日を迎えたのであった。
鹿子木量平父子の新地開拓は国家利益は勿論、民利を大いにすすめた功績は偉大であった。功により量平に禄百石、兼之助に五十石を給せられている。
新たに社寺をつくることは国法の禁ずるところであったが、細川斉茲の特別なはからいによって、貝洲に加藤神社を勧請したのであった。量平翁は、天保十二年(1841)七月四日、宝出の自宅で永眠された。享年八十九歳であった。この墓は三新地の接点に立てられ、翁の遺業を永遠に伝える。」とある。
「鹿子木泰蔵翁の墓」(写真17参照)
「鹿子木兼之助翁の墓」(写真18参照)
説明板(写真19参照)には、「鹿子木兼之助は、天明四年(1784)鹿子木量平の第四子として飽託郡五丁手永鹿子木村にうまれた。
文化二年(1805)島田太夫の内命を受け、備前岡山に遊学し、津田新田の普請を見習い種々様々の技法手段を学んで帰国した。
続いて、文化六年(1809)頃から諸国を巡遊し、土木、産業、大石運搬の技術等を習得している。
これらの経験を活用し四百町、七百町新地開拓には、大鞘水門、井堰等を築造した。新地開拓後は耕地割渡し、用水事業、新地勧農、土地に適応して、塩田、棉、甘藷の栽培を指導した。七百町の和合流塩浜の製塩を成功させ貝洲、硴原の高洲では甘藷の植え付けを奨励し、肥後藩最初の白砂糖を製造させている。
また、七百町干拓によって船着き場を失った内田、鏡町の要望を受け、御蔵が遠くなったこともあり、犬塚安太と共に鏡入江川の開削を藩に願い出、願いが許されると犬塚安太がこれを担当した。兼之助は文政九年(1826)鏡町船入港築造の命を受け、鏡御蔵の移転一棟増築も行っている。
新地干拓の実務について、兼之助の郷土に残した功績は多大である。
文久元年(1861)六月十七日七十八才でこの世を去る。
鏡町大字宝出の三新地の接点、父量平の北側に眠る。」とある。現在時刻15時帰途に就く。
18時半前に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。ウクライナに平和が訪れますように!
熊本(自宅)42km→文政神社36km →熊本(自宅)
所要時間7.5時間(実6.5時間) 総計78km 走行累計47,223km
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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