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熊本から気ままに山と自転車のブログ

菊池五山南福寺・東福寺・大琳寺・北福寺・西福寺

菊池五山巡礼
2022/3/29(火) 曇/晴

今日の最高気温予想19°天候は曇時々晴。目的地を徳王の桜、その後は菊池市指定史跡菊池五山(手洗山南福寺・輪足山東福寺・九儀山大琳寺・袈裟尾北福寺・無量山西福寺)巡礼として11時からポタリングに出る。
また、菊池三十三観音霊場として東福寺は1番札所に、北福寺は18番札所に、大琳寺は29番札所になっている。

徳王の桜を後にして、菊池市出田の菊池五山の一つ「手洗山南福寺」(写真2参照)に到着する。


説明板(写真3参照)には、「『肥後国司』によると、もとは天台宗の寺であり、開基年代は不明とあります。菊池氏15代武光により菊池五山が定められたときにその一寺とされました。本尊は薬師如来で、周囲には五輪塔の残欠が散在しています。境内には藩主細川氏が藩内巡視の際に馬をつなぎ留めたとされる「駒留めの桜」の子孫木があります。」とある。


境内に西側に、その子孫木の桜(写真4参照)が咲いている。


標柱説明文(写真5参照)には、「江戸時代、藩主細川公が領内巡視の際にしばしばこの寺に立ち寄り、馬(駒)をこの木につなぎ留めたとされることから、このように呼ばれています。
現在の木はもとの桜の枝から挿し木をして育てられたもので、境内にはこの木のほか堂の右、池側に一本、堤の道路沿いに一本同じように挿し木された桜が育てられています。」とある。


南福寺を後にして、亘の「輪足山東福寺」(写真6参照)に移動する。東福寺は、菊池三十三観音霊場1番札所でもある。


説明板(写真7参照)には、「創建は天慶元(938)年ともいわれる古い寺で、菊池15代武光のときに菊池五山の一つに定められました。現在の本堂は江戸時代後半に建て直されたもので、境内には菊池の一族として活躍した武村(10代武房の子)と覚勝(12代武時の弟)の墓などが並んでいます。
本堂に安置されている本尊の千手観音立像及び脇侍の不動明王立像、毘沙門天立像は熊本県有形文化財に指定されています。」とある。


江戸時代後半に建て直されたと云う本堂(写真8参照)


境内にある説明板(写真9参照)には、「東福寺は天台州延暦寺正覚院の末寺で、天慶元(938)證慶法印の開基といわれ、かつては寺領二十五町歩、末寺も十五か寺を数えた。
菊池十五代武光のとき東福寺も五山の一に列せられたが、慶長六年(1601)肥後が加藤清正の統治下にあったとき、寺領はすべて没収され末寺も失った。
東福寺の本尊十一面木像千手観音立像は平安末期の作、脇侍の木像毘沙門天立像・木像不動明王立像は室町前期の作で、ともに県指定の文化財となっている。
なお寺内には多数の石造文化財があるが、なかでも菊池十二代武時とともに博多の北条館に討ち入り戦死した弟 覚勝の墓といわれる五輪塔、足利氏と戦って大渡橋で討死にした菊池武村の五輪塔は市指定の文化財である。」とある。


境内東側(写真10参照)には、石造物がある。山頂は、展望所になっている。


その中の一つに「菊池武村の墓」(写真11参照)がある。


説明板(写真12参照)には、「菊池武村は、十代武房の末子と伝えられ、建武三(1336)年、十三代武重に従い、京都に侵攻してきた足利尊氏軍を大渡に迎え戦って討死した。
墓は九十四㎝の五輪塔で、「建武三年丙子正月足利殿合戦大渡橋上討死 沙弥空」と刻まれている。」とある。


東福寺を後にして、「九儀山大琳寺」(写真13参照)に移動する。大琳寺は、菊池三十三観音霊場29番札所でもある。


本堂(写真14参照)には、「九儀山」の扁額が掲げてある。


説明板(写真15参照)には、「『肥後国司』によると、もとは禅寺で開基年代は不明とあります。菊池氏15代武光により菊池五山が定められたときにその一寺とされました。もとの本尊は大日如来であったそうですが、現在は観音菩薩が祀られています。はじめは現在地より南の「古堂」と呼ばれる地にあったそうですが、宝暦5(1755)年の台風で倒壊し現在地に移されています。」とある。


大琳寺を後にして、「袈裟尾山北福寺」(写真16・17参照)に移動する。北福寺は、菊池三十三観音霊場18番札所でもある。境内は、桜の花に彩られている。


説明板(写真18参照)には、「『肥後国司』によると、初めは弘仁4(813)年に伝教大師(最澄)により創建された永福寺と称したとあり、菊池氏15代武光により菊池五山が定められたときに北福寺と改められました。本尊は薬師如来で、本堂裏手の林の中には多くの五輪塔や、礎石に使用された石が残されています。」とある。


本堂右横に菊池市指定文化財(建造物)五輪塔(写真19参照)がある。


その説明板(写真20参照)には、「五輪塔は、平安時代の中頃から造られており、供養塔、墓塔として用いられています。
その造りは下から、方形(四角)、球形(円)、三角形、半球形、宝珠形の五輪塔を積み上げることで構成されており、それぞれが地、水、火、風、空の五大を表しています。風輪と空輪が同一の石から造られている場合も多く見られます。
各輪に一文字ずつ梵字を刻むこともありますが、水輪に刻まれている場合が最も多く、また地輪のは造立の趣意、造立年、施主が刻まれています。
この五輪塔には、正面に「建武二年八月七日未時、當山院主藤原力丸 青年十三入滅」とあります。
五輪塔はその多くが武士層により造立されているといい、この五輪塔は、輪足山東福寺に所在する菊池覚勝の墓に次いで二番目に古いものです。」とある。


北福寺を後にして、西福寺に移動する途中、追分石(写真21参照)を見た。現代に造り直されたものと思うが、風情があっていいと思う。


無量山西福寺(写真22参照)も桜の花に彩られている。ここは以前(下記参照2020.11.28)に訪れているので、写真は最小限とした。現在時刻15時半帰途に就く。


17時半に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)33km→北福寺33km →熊本(自宅)
所要時間6.5時間(実5.5時間) 総計66km 走行累計47,080km


無量山西福寺
2020/11/28(土) 曇/晴

味取観音を後にして菊池市西寺に移動する。
西寺地区の東西に延びる道路の西の正面に立派な墓石か?地蔵尊?(写真1参照)が見えた。


西福寺(写真2参照)と云い、この地区中心に位置する。


説明板(写真3参照)があり、「この寺は和銅2(709)年の開基と伝えられ、西寺という地名の語源ともいわれています。菊池氏15代武光により菊池五山が定められたときにその一寺とされました。本尊は阿弥陀如来で、室町時代末期の制作と推測されます。裏の墓地には、10代武房の弟赤星有隆の墓があります。」とある。


西福寺を後にして、西寺八幡宮、延寿太郎屋敷跡へ移動する。


自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

コメント一覧

asotakadakedake1592
サイクルG3さんへ コメント有難うございます。
コメントに、私も元気を頂いています。
1,000km/月の記録を見て、自分でも少し驚いています。コロナ禍のなか、日常の買物等以外映画やイベントには行かず、読書と自転車オンリーの生活です。が、それなりに楽しく自転車に乗っています。自転車くま
romajin-da
こんにちは
月間1000km達成おめでとうございます。
ますます走行距離が延びて、充実した自転車生活を送られている事は何よりです。老いて気力・体力共に、ますます充実されているお姿を拝見して、私も元気をもらっています。
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