熊本から気ままに山と自転車のブログ

松合白壁土蔵群・丸目蔵人墓

松合白壁土蔵群・丸目蔵人墓
2018/12/25(火) 晴

今朝は晴天。気温は低いが昼間は緩むと言う。
今日の目的地は南方向、宇城市道の駅「不知火」の予定。
が、予定は決定にあらず。結果は、松合で引き返し、丸目蔵人信久の墓まで行った。
国道266を西進して、昼食には未だ早いので道の駅「不知火」を通過し、松合市街地(写真1参照)に到着する。


松合地区は、昔住宅が密集し火災が多かったので防火のために白壁にした。
そのため今でも白壁の家が多いという。
市街地入り口の案内板(写真2参照)では、この地区は昭和初期までは繁栄していたとある。
明治32年に鉄道(三角線)が開業し、港の荷揚げが三角港に移動してから賑わいが下火になったらしい。


地区の氏神社は、大歳宮(写真3参照)だった。
松合から県道58で宇土半島を横断した所に、大王の棺で有名な馬門石の石切りが場あるそこの地区も大歳神社だった。両地区の関連性が知りたいところである。


狛犬(写真4参照)が石灰石製であるのが珍しい。
狛犬の顔つきに迫力を感じる。


郷土資料館が休館日だったので、帰途に就くも、途中「丸目蔵人の墓」の標識を見て探索する。
道に迷ってたどり着いたのが琴平宮(写真5参照)だった。
この地区も海洋民のご子孫か。


境内に入り祠(写真6参照)を見る。
敷地が微高地で円形をしている。
古墳跡に神を祀ったか。


1kmほど引き返し、0.5kmほど急坂を上ると標識(写真7参照)があった。
丸目蔵人は天文9(1540)年生まれ。安土桃山、江戸初期の兵法者。
新陰流を学び、上泉四天王と称される。
後帰郷して肥後人吉藩の剣術師範となる(デジタル版日本人名辞典より)


竹林のなかに、それはあった(写真8参照)


「しげのり」さんのブログによると球磨郡錦町一武 切原野 字堂山にもう一つの墓がある。
「しげのり」さんは錦町の方が墓で、こちら(写真9参照)は慰霊碑でなかろうか言う。


今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)31km→宇城市松合38km→熊本(自宅)所要時間6.5時間(実5.5時間) 総計69km 走行累計26,534km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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