2021/7/6(火) 曇/晴
出発時の気温29°帰宅時の気温30°曇天で湿度は高く暑い日だった。
週間天気予報の傘マークが並ぶ中に、今日の降水確率は午前20%、午後40%の予報に午前9時前から、目的地を菊池市の県指定文化財「玉祥寺の梵鐘」としてポタリングに出る。が、結果梵鐘は見ることが出来なかった。
熊鹿ロードを北進し、芦原橋で合志川、橋田大橋で菊池川、高田橋で迫間川を渡り、西郷橋で迫間川を左岸に戻り菊池市街地を目指す。
市街地北側から春日神社前の橋で迫間川を右岸側に渡り、玉祥寺(写真1参照)を目指す。1km程行き過ぎて道をお訊ねして、引き返し無事に到着する。
玉祥寺は、山門を残し廃寺になっていた。
山門左側に大きな宝篋印塔(写真2参照)がある。
山門を潜った左側にも大きな石塔(写真3参照)がある。建物はないが庭園の名残はある。
山門二階に梵鐘(写真4参照)が吊るされている。これは、県指定重要文化財の梵鐘ではないようだ。
熊本県公式観光サイトには「梵鐘は、口径38cm、高さ68cmと小ぶりながらも、明応5年(1496年)の刻銘があり、県指定の重要文化財・・・」とあるので大きさが違う。また、「本堂、庫裏、山門などが残って・・・」とあるので、最近本堂、庫裏は撤去されたと推測する。
説明文(写真5参照)には、「菊池二十代為邦の墓と二十一代重朝の墓
菊池十九代持朝の死去によって当時十六歳の犬丸が二十代を継ぎ、名を為邦と改めた。菊池氏が最も盛えていた十五代武光の死去以来次第に衰運に傾き、為邦のころは菊池の本領を守るに精一杯という状態であった。
しかし、為邦は三七歳の若さで家督を嫡男重朝に譲り、自らは日夜碧厳集の研究に励み、その名は遠く京都までとどろいた。この江月山玉祥寺は為邦が菩提寺として建立したもので、境内の墓碑銘は尖活仍勢居士。
重朝が二十一代を継いだのは文正元年(1466)のときであったが、この代も父の代失った筑後の領地を回復するには至らなかった。しかし、父為邦より受継いだ学問の再興は重朝の代さらに昂揚を見せ、現在の高之瀬地区に孔子堂を建てて道内に孔子や十哲の像をまつり、釈奠(せきてん)の礼を行った。「戸々民村、夜、書を誦す」との横川天隠の賛辞はこの代のことで、連歌「菊池万句」も重朝の館をはじめ、家臣諸公の居館で行われた、父為邦と並び立つ宝篋印塔の重朝墓碑銘は、龍雲院梅屋祥英。」とある。
宝篋印塔の墓碑銘は、確認してこなかった。
七城町亀尾辺りで見た鮮やかな黄色のヒマワリの花(写真6参照)
14時半に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)33km→玉祥寺27km→熊本(自宅)
所要時間5.5時間(実4.5時間) 総計60km 走行累計41,919km
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
コメント一覧
最新の画像もっと見る
最近の「肥後国中世史跡・文化財探訪記」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
- 熊本から山と自転車のブログ索引(21)
- 残しておきたい自転車日記(109)
- トレッキング・ウォーキング記(107)
- 日帰り登山・ハイキング日記(59)
- 公園・歴史公園・資料館・博物館探訪記(67)
- 熊本の湧水・名水探訪記(39)
- 熊本の名勝・天然記念物探訪記(55)
- 熊本の近代史跡・文化財探訪記(74)
- 肥後国(熊本)石橋探訪記(40)
- 放牛石仏(地蔵)探訪記(32)
- 肥後国六地蔵探訪記(49)
- 加藤清正遺跡等探訪記(49)
- 肥後国近世史跡・文化財探訪記(67)
- 肥後国中世史跡・文化財探訪記(84)
- 肥後国(熊本)神社探訪記(93)
- 肥後国(熊本)仏閣探訪記(40)
- 肥後国古代史跡・文化財探訪記(47)
- 肥後国古墳探訪記(144)
バックナンバー
人気記事