前回は幕末前までの『廃仏毀釈』について書きました。
『廃仏毀釈派』明治政府により開始された政策のように思われていますが実は違うのです。
幕末に各藩で『尊王攘夷』活動が起こりました。
例えば水戸藩においては二代藩主『徳川光圀』の頃に、すでに神仏分離が起こっているのです。
そして、第7代の『徳川斉昭』には、藩政の改革と相まって、苛烈な「神仏分離」を政策として打ち出しています。
これは、仏教界の一部腐敗を背景としていることと、幕末の『尊王攘夷』運動が、宗教としての古代神道の復権を掲げたからです。
そして、物的根拠としては海外からの侵略を防ぐために、金属が莫大に必要となり、寺院にある梵鐘や銅製の仏像を兵器として利用するといった目的もありました。
『斉昭』が潰した寺院は190か所にも上りました。
この行為に寺院と共生していた江戸幕府は支配体制に対する破壊行為と受け取り、天保15年(1844)に、『斉昭』に対して謹慎処分を命じました。ここでいったん水戸藩の廃仏毀釈運動は中断しますが、薩摩藩、長州藩などほかの藩にも広がっていきました。
そして明治維新を迎えるのです。 続く
前回お読みになっていない方に、下記にコピーしておきます。
【あなたは廃仏毀釈という制度がかつて日本にあったことはご存じでしょうか。
私は言葉だけは知っていましたが、これほど激しいことだったことは知りませんでした。
大学の科目では『伝統』という事柄の一つとして語られます。
『仏教』が日本に公伝したのはいろいろな説がありますが、6世紀中盤頃のことでした。
仏教が日本に伝わってくる前は、日本には『古代の神道』のようなものがあったようです。
百済から伝わってきた仏教は、蘇我氏に預けられました。
その後蘇我氏と物部氏の権力争いの中に仏教が巻き込まれます。
結果として、蘇我氏が権力を握り、仏教が大和朝廷に広がります。
しかし、蘇我氏はこのとき物部氏が支持した古代神道を根絶やしにすることはしませんでした。
この頃から仏教と古代神道は混然一体として存在するようになります。これが神仏習合で天皇は東大寺などを建立し大いに仏教への信仰を強めていく一方、宮中では『伝統行事』として古代神道としての儀式を執り行っていました。
上下関係をつければ、古代神道は徐々に仏教の中に吸収されていきます。
典型的な例でいえば、奈良に『東大寺』があり、そのすぐ隣には『春日大社』
があります、また、あなたの近くのお寺さんにも、
小さな神社がまつられているのをご覧になったことがあると思います。
戦国時代には『織田信長』が延暦寺を焼き討ちし僧兵を皆殺しにしたという事実があります。
しかしこの事実に関しても『信長』が仏教を否定したということではありませんでした。
『信長』は仏教を根絶やしにするようなことはしていません。
江戸時代には、幕府の戸籍管理政策により、お寺が戸籍を管理していた関係で、力を持ち、村人とトラブルになっていたケースも多々あったようです。
もちろん村人の信仰心を集め愛されていたお寺もたくさんあります。
また、江戸の人たちの識字率は世界一だったといわれます、こうした教育水準の高さは『寺子屋』によって維持されていたのです。
そして江戸時代の末期までこの『伝統』は続いてきました。
続く