普段思うように訓練ができず
夏休みは力を入れて取り組む
朝早く児童公園へ行く誰もいない公園でござを敷いて寝返り腹這い
課題の訓練を済ます。
何事もなかったように朝食の準備や食事介助
だんだん気温が上がり熱くて体が動かない
ゆっくり休んで市民プール(当時長町市民プールがあった)
自宅で水着を着てすぐプールへはいれるように準備をして車に乗る
うーちゃんは直径50センチの浮き輪(体にぴったりのもの)に入り
子供たちが騒いでいるところへちかづいていく
足も頭もぐんぐん動かし子供たちの笑いの中へ進む
同じようにみんながふざけると自分も笑う、
分かっているのか不思議に楽しそうにして体を存分に動かす
うーさんの喜ぶ顔がうれしい
雨が降らない限り毎日通う
これが夏休みの遊びだった
夏休みが終えるころ
日焼けして裸にすると水着を着ているように
日焼けをしていた。
おかげで年中風邪もひかず元気に過ごすようでした。
運動会、ここの学校は知的障害を持つ方が主なので超重度の子供の運動会って
どんなこと?になるか?
初めての運動会
校庭の真ん中に青い大きなシートが敷かれて生徒さんがシートを囲み
待っていた超重度学級の子供たちがそれぞれ介助されながら
シートに入りスタートラインに立つ、ゴールあらかじめゴールまでの
タイムを登録しいざ、寝返りで、いざりで、ハイハイで 四つ這いで
出発の合図でみんな自分の移動手段を使いゴールまで移動
介助をいただきながら 最後は登録したタイムに一番近い方が一等
シートの周りで皆大きな声で頑張れ頑張れのコール
初めての様子に泣き出す方もいたがそれぞれ頑張りました
感動の運動会でした
40年前の出来事を今も鮮やかによみがえってきます
当時、養護学校、重症児の入る学校は仙台市に一つだけ
通うためには、自家用車、タクシー、家族に送ってもらう、でした
昭和56年この年から重度の子供たちの通学バスが配置された。
このばすに乗るには親が一緒に乗らなければならないのです。それは
障害が重く何かあったら大変で、寝たきりの方お座りできない方、たとえお座りできても手を離すとどこへ転がり込むか? それで必ず親付きが条件でした
一台のバスは仙台中から通学する方を乗せるので全員が下りるまでかなりの時間を要したのです、
帰りなど抱っこして出発するのですが、
親たちは気持ちよく眠ってしまい、あっと子供から手を放しそうになり
びっくりすることが度々ありました。2年から
我が家はうーちゃんの姉たちが学校から帰るころになるため
自家用車で通学をすることになりました。
私は運転免許を取っていたのでおおたすかり
今後、車はうーさんを育てるための必要不可欠の移動手段となっていきます。
帰宅後母少しの休憩と家事です早めの夕食を終えうーさんの簡単な訓練があります
うーさんの車のナンバーは彼の生年月日 12月14日
1980年 普通車、車椅子ごと乗れる車は市場に出でいませんでした
2007年 ラクテス~初めて車椅子ごと乗れるスロープ付きなので快適になる
12年後、体も車椅子も大きくなりつぎの
2019年 シェンター車椅子使用者リモコンによるリフトなので83歳の私でも
一人で乗降させれて助かります。年々快適な走行ができ、車の構造?の
進歩は急速に技術が高まり時代の流れを感じるこの頃です。
後どのくらい乗れるか分からないけど、無事故無違反をこれこれからも
貫きうーさんの大切な足となって移動しよう
いよいよ小学校1年生 自分たちの願いが叶い学校へはいれた
うーさんたちは何がうれしいか分からないけれど親達が喜んでいる
学校まで車で10km、普通の小学校は自宅から歩いて登校ですが
うーさんは特別支援学校なので、、、、、、、、、、、
母は毎日送迎と、食事介助、帰りの会は親と共に,そんな毎日
帰りも車で10km
私達はそれだけでもうれしかった。
先生たちは、当たり前ですがこんなに障害の重い子どもたちをどう教育?
していくか、とても大変だったと思う
保護者がいなければどう対応していったらよいか?
はじめは混乱したと思うけど、時間がたつうち
さすが先生たち 徐々に慣れてきて素晴らしい先生たちでした。
何より個々の子供の反応を知った時先生たち皆で大きな声で笑ってくれた
笑いが増えていつの間にか子供達もニコニコ
とてもいい感じでした。明日も学校へ