(承前)
元親にとって気がかりなこと、それは三好康長の四国渡海です。
天正8年(1580)11月24日付「羽柴秀吉宛 長宗我部元親書状」には、次のことが記されてます。
一、阿・讃於平均者、雖為不肖身上西国表御手遣之節者、随分相当之致御馳走可詢粉骨念願計候。
(阿波・讃岐の平定がなりましたら、不肖の身ですが西国表への出兵の際には、最大限の協力を致します。)
一、三好山城守近日讃州至安富館下国必定候、子細口上可申分候、
(三好康長が近日、讃岐の安富氏の館に下り、やがて阿波に入るものと思われます。詳しくは使者が説明します。)
元親は秀吉に阿波・讃岐平定の意欲を陳べる一方で、近々、康長が四国へ渡海するするであろうことを伝えています。
康長の渡海については、奇しくもその前日付けで堺の代官である松井友閑が「秀吉宛書状」にも見られる安富筑後守・同又次郎に宛てた書状があり(「志岐家旧蔵文書」)、
その阿・讃の儀、三好山城守にいよいよ仰せつけられ候、その刻み、御人数一廉相副えられ、
即時に両国残らず一着候様に仰せつけられるべく候
(阿波・讃岐の平定については三好康長が任されました。その際には精鋭の兵を従軍させ、
即時に両国ともに平定するように申し渡されるでしょう。)
と、康長が信長より阿波・讃岐の平定を命じられた旨が述べられています。
信長は元親の阿波・讃岐の平定が覚束ないとみて康長に四国渡海を命じたと考えられますが、四国制覇を目指す元親にとって危惧すべき出来事であったことは言うまでもありません。
翌9年6月、その元親方に信長からの朱印状と康長の添状が届けられます。
それこそがまさに、『元親記』にいう「阿波南郡半国、本国に相添へ遣はさるべし」であったと考えられます。
元親にとって気がかりなこと、それは三好康長の四国渡海です。
天正8年(1580)11月24日付「羽柴秀吉宛 長宗我部元親書状」には、次のことが記されてます。
一、阿・讃於平均者、雖為不肖身上西国表御手遣之節者、随分相当之致御馳走可詢粉骨念願計候。
(阿波・讃岐の平定がなりましたら、不肖の身ですが西国表への出兵の際には、最大限の協力を致します。)
一、三好山城守近日讃州至安富館下国必定候、子細口上可申分候、
(三好康長が近日、讃岐の安富氏の館に下り、やがて阿波に入るものと思われます。詳しくは使者が説明します。)
元親は秀吉に阿波・讃岐平定の意欲を陳べる一方で、近々、康長が四国へ渡海するするであろうことを伝えています。
康長の渡海については、奇しくもその前日付けで堺の代官である松井友閑が「秀吉宛書状」にも見られる安富筑後守・同又次郎に宛てた書状があり(「志岐家旧蔵文書」)、
その阿・讃の儀、三好山城守にいよいよ仰せつけられ候、その刻み、御人数一廉相副えられ、
即時に両国残らず一着候様に仰せつけられるべく候
(阿波・讃岐の平定については三好康長が任されました。その際には精鋭の兵を従軍させ、
即時に両国ともに平定するように申し渡されるでしょう。)
と、康長が信長より阿波・讃岐の平定を命じられた旨が述べられています。
信長は元親の阿波・讃岐の平定が覚束ないとみて康長に四国渡海を命じたと考えられますが、四国制覇を目指す元親にとって危惧すべき出来事であったことは言うまでもありません。
翌9年6月、その元親方に信長からの朱印状と康長の添状が届けられます。
それこそがまさに、『元親記』にいう「阿波南郡半国、本国に相添へ遣はさるべし」であったと考えられます。
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