「愛宕百韻」と言えばとかく光秀の発句が注目されていますが、実は西之坊威徳院住職の行祐の詠んだ脇句こそ注目すべきだと言えます。何故なら、まさにそれは細川藤孝の代返だと考えられるからです。
本能寺の変の前年天正九年(1951)の四月、光秀は連歌師の紹巴、堺の津田宗及らとともに丹後宮津の藤孝を訪ね、同十二日、天橋立に遊び連歌を詠んでいます。
発句の光秀に続いたのは藤孝であり、
夏山うつす水の見なかミ
と詠んでいます。※
それに対し「愛宕百韻」で行祐の詠んだ脇句は『信長(公)記』によれば
水上まさる庭のまつ山
と、先の藤孝の句の頭と終わりを入れ替え擬えたものと見ることができます。しかも、後者の「まつ山」は本来「夏山」であったことを明智憲三郎氏も指摘されていますからなおさらです。
では何故、行祐は藤孝の句に擬えた脇句を詠んだのでしょうか。そこに、藤孝と愛宕山の緊密な関係が指摘できます。
天正九年の四月に丹後宮津への遊覧に向かう光秀一行は、同十日に福知山で明智秀満の接待を受けると、翌日にはその道すがら愛宕山下坊福寿院住職の幸朝の接待を受けています。しかもそれは、茶屋を建て、鮎や鯉、鮒の泳ぐ池を造営した本格的な接待であったことが窺えますが、愛宕山から遠く離れた彼の地で何故、幸朝は光秀一行を接待したのでしょうか。
実は、翌十年の三月に藤孝の三男・幸隆がその福寿院に入門しています。そのことから考えると、藤孝と愛宕山との間には早くから通じるところがあり、幸朝の接待には細川氏サイドの意向が働いていたのではないかと思われます。
そこで「愛宕百韻」ですが、実際に出陣する忠興はともかく留守を預かる藤孝は、本来「愛宕百韻」(と呼ばれる戦勝祈願)に参加する予定であったのではないでしょうか。しかし、光秀に中国出陣が命じられた直後、藤孝の母が死去しています※。それにより藤孝は喪に服すこととなり参加を見合わせ、代わって亭主である西之坊の行祐がその意を汲み、藤孝の句に擬えた脇句を詠んだのではないでしょうか。
その上で『惟任退治記』にはひとつの疑問があります。それは、同書が「愛宕百韻」の光秀の発句のみを掲載し脇句と第三句を省いていることです。本来、連歌のルールからすればそれらはセットとして扱うべきべきものであり、『退治記』も「信長追善の連歌」は三句とも掲載しています。
秀吉にしてみれば必要なのは「光秀の句」だけですから不思議は無いのかも知れませんが、当然、牛一も『信長(公)記』には脇句と第三句も掲載しており、小瀬甫庵もそれを踏襲しています。ただ違うのは、甫庵が『退治記』に倣い光秀の句への疑惑を記しているのに対し、牛一がそれに触れていないことです。牛一自身は光秀の句に疑惑を持たなかったのでしょうか。
しかし以前も述べたように、牛一は謀反の理由に「光秀の野心」を考えていました。※
考えるに、藤孝の句に擬えらた脇句を掲載したうえでそのことを記した場合、藤孝にも疑惑の目が向けられることを慮ったのではないでしょうか。
「愛宕百韻」の写本間の語句に差異が見られるのも、そうした事情を背景に牛一自身もしくは彼にそれを伝えた人物が差し替えたのではないかと思われます。
※『宗及他会記』
※『綿公輯録』 五月十九日
本能寺の変の前年天正九年(1951)の四月、光秀は連歌師の紹巴、堺の津田宗及らとともに丹後宮津の藤孝を訪ね、同十二日、天橋立に遊び連歌を詠んでいます。
発句の光秀に続いたのは藤孝であり、
夏山うつす水の見なかミ
と詠んでいます。※
それに対し「愛宕百韻」で行祐の詠んだ脇句は『信長(公)記』によれば
水上まさる庭のまつ山
と、先の藤孝の句の頭と終わりを入れ替え擬えたものと見ることができます。しかも、後者の「まつ山」は本来「夏山」であったことを明智憲三郎氏も指摘されていますからなおさらです。
では何故、行祐は藤孝の句に擬えた脇句を詠んだのでしょうか。そこに、藤孝と愛宕山の緊密な関係が指摘できます。
天正九年の四月に丹後宮津への遊覧に向かう光秀一行は、同十日に福知山で明智秀満の接待を受けると、翌日にはその道すがら愛宕山下坊福寿院住職の幸朝の接待を受けています。しかもそれは、茶屋を建て、鮎や鯉、鮒の泳ぐ池を造営した本格的な接待であったことが窺えますが、愛宕山から遠く離れた彼の地で何故、幸朝は光秀一行を接待したのでしょうか。
実は、翌十年の三月に藤孝の三男・幸隆がその福寿院に入門しています。そのことから考えると、藤孝と愛宕山との間には早くから通じるところがあり、幸朝の接待には細川氏サイドの意向が働いていたのではないかと思われます。
そこで「愛宕百韻」ですが、実際に出陣する忠興はともかく留守を預かる藤孝は、本来「愛宕百韻」(と呼ばれる戦勝祈願)に参加する予定であったのではないでしょうか。しかし、光秀に中国出陣が命じられた直後、藤孝の母が死去しています※。それにより藤孝は喪に服すこととなり参加を見合わせ、代わって亭主である西之坊の行祐がその意を汲み、藤孝の句に擬えた脇句を詠んだのではないでしょうか。
その上で『惟任退治記』にはひとつの疑問があります。それは、同書が「愛宕百韻」の光秀の発句のみを掲載し脇句と第三句を省いていることです。本来、連歌のルールからすればそれらはセットとして扱うべきべきものであり、『退治記』も「信長追善の連歌」は三句とも掲載しています。
秀吉にしてみれば必要なのは「光秀の句」だけですから不思議は無いのかも知れませんが、当然、牛一も『信長(公)記』には脇句と第三句も掲載しており、小瀬甫庵もそれを踏襲しています。ただ違うのは、甫庵が『退治記』に倣い光秀の句への疑惑を記しているのに対し、牛一がそれに触れていないことです。牛一自身は光秀の句に疑惑を持たなかったのでしょうか。
しかし以前も述べたように、牛一は謀反の理由に「光秀の野心」を考えていました。※
考えるに、藤孝の句に擬えらた脇句を掲載したうえでそのことを記した場合、藤孝にも疑惑の目が向けられることを慮ったのではないでしょうか。
「愛宕百韻」の写本間の語句に差異が見られるのも、そうした事情を背景に牛一自身もしくは彼にそれを伝えた人物が差し替えたのではないかと思われます。
※『宗及他会記』
※『綿公輯録』 五月十九日
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます