そもそも『惟任退治記』は、山崎の戦いで光秀を打ち破り、清洲会議を経て天正十年(1582)十月の大徳寺での盛大な信長の法要で信長の後継者としての立場を世間に知らしめた秀吉が、自身の功績を誇示する為に御伽衆の大村由己に著させたものですが、上梓されたのが天正十年の十月二十五日と、最も早く本能寺の変の詳細についてまとめ記した文献だと言えます。
有名な「愛宕百韻」での光秀の句に最初に注目したのがおそらく同書であった考えられますが、その後半部分で強調されているのが、細川藤孝の忠義です。
光秀については信長の恩を忘れ謀反を起こしたことは天罰に値し、変から十三日後に首を刎ねられたのは因果歴然であるとする一方で、細川藤孝(長岡兵部大輔)については、信長の恩の深さを忘れず光秀には組せず秀吉に味方し、清洲会議に際しても奔走し、信長追善の連歌を興行し人々の涙を誘ったと記されています。
その追善連歌については『綿公輯録』のそれが詳しく、信長の命日から四十九日に当たる天正十年の七月二十日に上洛した藤孝は、自ら費用を負担し本能寺の焼け跡に仮屋を設け、門跡、公武、僧俗の差別なくこれに連なったとされます。
実はそれこそが問題であり、小瀬甫庵の『太閤記』にも記されているその追善連歌ですが、当時の日記等には一切記録されていないのです。『兼見卿記』によれば、それまで在京していた藤孝は同日に丹後へ帰国したあります。一体どういうことでしょうか。※
それについては当時の状況に注目すべき点があります。
それは何か。秀吉による変への関与の詮議が行われていたということです。※
すなわち、『惟任退治記』はその詮議を踏まえ本能寺の変についての公式事件記録として著されたものであり、意図するところは、偏に謀反は光秀の個人的動機から起こされたものであり、藤孝を含め他に関与した者はいないという事です。
追善連歌の記事は、それを世間に喧伝するために創作された「公然の嘘」であったと考えられます。
※『大日本史料』でも疑問とし盂蘭盆である十五日の興行かとしていますが、やはり確認できません。
※誠仁親王の義弟である万里小路充房の美濃下向騒動もその一環ではないかと考えられます。
有名な「愛宕百韻」での光秀の句に最初に注目したのがおそらく同書であった考えられますが、その後半部分で強調されているのが、細川藤孝の忠義です。
光秀については信長の恩を忘れ謀反を起こしたことは天罰に値し、変から十三日後に首を刎ねられたのは因果歴然であるとする一方で、細川藤孝(長岡兵部大輔)については、信長の恩の深さを忘れず光秀には組せず秀吉に味方し、清洲会議に際しても奔走し、信長追善の連歌を興行し人々の涙を誘ったと記されています。
その追善連歌については『綿公輯録』のそれが詳しく、信長の命日から四十九日に当たる天正十年の七月二十日に上洛した藤孝は、自ら費用を負担し本能寺の焼け跡に仮屋を設け、門跡、公武、僧俗の差別なくこれに連なったとされます。
実はそれこそが問題であり、小瀬甫庵の『太閤記』にも記されているその追善連歌ですが、当時の日記等には一切記録されていないのです。『兼見卿記』によれば、それまで在京していた藤孝は同日に丹後へ帰国したあります。一体どういうことでしょうか。※
それについては当時の状況に注目すべき点があります。
それは何か。秀吉による変への関与の詮議が行われていたということです。※
すなわち、『惟任退治記』はその詮議を踏まえ本能寺の変についての公式事件記録として著されたものであり、意図するところは、偏に謀反は光秀の個人的動機から起こされたものであり、藤孝を含め他に関与した者はいないという事です。
追善連歌の記事は、それを世間に喧伝するために創作された「公然の嘘」であったと考えられます。
※『大日本史料』でも疑問とし盂蘭盆である十五日の興行かとしていますが、やはり確認できません。
※誠仁親王の義弟である万里小路充房の美濃下向騒動もその一環ではないかと考えられます。
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