1.調律師が頑張っても、奏者一人一人が意識しなければ、調和は生まれない。
法律家が出回っても、国民一人一人が心がけなければ、平和は決して生まれない。
優れた調律器を用意しても、練習を怠るならば、どんどん下手になっていく。
法律や法律家をいくら増やしても、国民が努力しなければ国は日に日に悪くなっていく。
「法令滋々彰はれて、盗賊多く有り(老子/第57章)
2.練習もしないで、君たちは美しい音楽が奏でられると思っているのかね?
善行に励まないで、お前たちは立派な国を作れるとでも思っているのか?
一人一人が良い音で演奏するから、美しい響きが生じるのではないか?
一人一人が善い行いに励むから、美しい国ができるのではないか?
「信者であれ、ユダヤ教徒であれ、サビア人であれ、キリスト教徒であれ、神と終末の日とを信じて善を行う者は、恐れることもなく悲しむこともない。
かつて我らは、イスラエルの子らと契約を結び、彼らに使徒たちを遣わした。しかし、使徒が何か彼らの気に染まないものを持ってくる度に、彼らはある者を嘘つきだとし、ある者を殺しさえした。彼らはそれでも、どんな禍も起こらないと考えていた。全くの盲目で耳しいであった。その後、神が彼らを赦し給うたが、それでも猶多くの者は盲目であり、耳しいであった。神は彼らの行うことをみそなわし給う(コーラン5:69)」
3.音質を良くすることに努めずに、音量を増すことばかりに努めるならば、迷惑ばかりが大きくなる。
人心を善くすることに努めずに、国力の増大ばかりに努めるならば、憂患ばかりが大きくなる。
音が美しく、演奏が整っているならば、音量など小さくても人々の心をひきつけて止まない。
確かな耳を持つ者は、音量の多寡などに惑わされて、乱雑な国を賞賛したりはしない。
「故に乱国は盛んなるが如く、治国は虚しきが如く、亡国は足らざるが如く、存国は余有るが如し。虚しとは、人無きに非ず、皆その職を守る也。盛んなりとは、人多きに非ず、皆末に求むる也。余有りとは、財多きに非ず、欲節し、事寡なき也。足らずとは、貨無きに非ず、民躁がしくして費多き也。故に先王の法籍は作る所に非ず、其の因る所也。其の禁誅は為す所に非ず、其の守る所也(淮南子/第11巻)」
4.譜面を読めない指揮者などいらない。啓典を読まない指導者などいらない。
楽曲を正しく奏すには調律が必要だ。啓典を正しく読むには律法が必要だ。
七だの三だのと書いてあるからといって、琴曲を算盤で弾く奴がいるか。
比喩で語られていると言うのに、それを迷妄だなんて言うのは大馬鹿者だ。
「神こそ、汝にこの啓典を下し給うたお方である。その中には瞭然とした文句があり、これらは啓典の母体である。また、別に曖昧な文句がある。心に歪のある者は、曖昧な方に取り付いて、混乱を求め、勝手な解釈をしようとする。しかし、神の他に本当の解釈を知る者はない。知識に根を下ろしている者は言う、『我々はこれを信じます。何れも主の御元から出たものです』。心ある者以外は、何も反省しない(コーラン3:7)」
5.作曲家なら、聴覚や心理を分析しても、よい音楽が生まれないことを知っている。
本当の哲学者なら、主観だの理性だのという言葉で、つまらん書物をかいたりしない。
ちゃんとした作曲家はお玉杓子で楽曲を記すのではないか。
物事の真相に通じた哲学者は、必ず比喩で語りかけるのではないか。
「私が彼らに譬えで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また悟ることもないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。
あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。
確かに見てはいるが、決して分からない。
この民の心は鈍くなり、その耳は遠く
目は瞑っているからである。
それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、
その心で悟って立ち返り
私に癒されることのないためである。
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。またあなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです(マタイ伝131:13)」
6.音楽家なら、作曲はできても、音律を勝手に作ることはできないと知っている。
法学者なら、法律は意見で作られるものではないと知っている。
調律は気温によって微妙に変化するが、音律は自然に生まれるから変わらない。
刑罰は時代によって多少変動させても、倫理は絶対に揺るがしたりしない。
「私が来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でも決して廃れることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち尤も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さいものと呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます(マタイ伝5:17)」
7.まともな聴覚を持つ者なら、音律を自分たちで作るなんて馬鹿げた話だと言う。
まともな良心を持つ者なら、法律を自分たちで作るなんて正気の沙汰ではないと言う。
和声や調律は、聴覚や真理に源泉を持つのではない。音響自体の性質にあるのだ。
道徳や法律は、主観や感情に根拠を持つのではない。物事自体の性質にあるのだ。
8.熟練の調律師は、調律機器など使わないで、完全な調律をする。
熟達した裁判官は、法典など手にしないで、完全な裁きをする。
調律器がなければ調律できないというなら、どうやって調律器の調律をするのか。
法律がなければ裁定できないというなら、どうやって法律を修正するのか。
「汝の主は、その叡智によって彼らの間を裁き給うお方である。まことに全能なるお方である。よって、神に一切を委ねるがよい。汝は、確かに明白な真理の上にある(コーラン27:78)」
9.調律は、音楽を美しくするためには欠かせない。戒律は、共同体を善くするためには欠かせない。
調律を無視する楽団には近づかない方がよい。耳も頭もおかしくなる。
戒律を放擲した国家には近づかない方がよい。良識も礼儀もわからなくなる。
不協和音ばかりなら沈黙の方がよい。万年内紛状態ならば滅んでしまった方がよい。
「信仰の無い者を譬えれば、何と呼びかけても呼び声や叫び声しか聞き分けられないような者。彼等は聾、唖、盲で、何も悟らない(コーラン2:171)」
10.正しく歌えない調律師などに、一体誰が調律を依頼するだろうか。
不正や暴言だらけの代議士などに、一体正しい法律が作れるのだろうか。
学校も出ていない、音痴の者が調律したピアノが、心地よい演奏を聴かせるだろうか。
口先だけの代議士が立法するような国家は、争いばかりで頭がおかしくなる。
「耳、清濁の分を知らざる者は、音を調へしむべからず、心、治乱の源を知らざる者は、法を制せしむべからず。必ず独聞の聡、独見の明有りて、然る後に能く道を専らにして行はん(淮南子/第13巻)」