天上天下唯我独尊

夢に生き、夢のように生きる人の世を
憐れと思へば、罪幸もなし・・・

四行詩集 ~無花果の実り~ 2

2008-01-23 00:07:47 | 「無花果の実り」
1.汚れたレンズで眺めるならば、綺麗なものも汚れて見える。
  汚れた手で扱うならば、きれいなものも汚してしまう。
  他人の汚れを叫ぶ前に、自分が汚れてないか確認しろ。
  自分が本当に清いなら、わざわざ臭い汚れに近づくな。
「孔子曰く、人の悪を言ふは、己を美にする所以に非ず。人の曲がれるを言ふは、己を直くする所以に非ず。故に君子は其の悪を責めて人の悪を攻むること無し、と(孔子家語/第18章)」。

2.皿に盛られているものをすべて食物と言うのではない。
  杯に注がれてあるものをすべて飲み物というのではない。
  紙に著されているものをすべて書物というのではない。
  栄養のない食物は無用だ。教養のない書物も無用だ。
「神儒仏の書、数万巻在り。それを研究するも、深山に入り座禅するも、其の道を上り究むる時は、世を救ひ、世を益するの外に道はあるべからず。若しあると云えば、邪道なるべし。正道は必ず世を益するの一つ也。……人世に用無き物は尊ぶに足らず、広がれば広がるほど、世の害となる也。幾世の後か、聖主出て、此の如き無用の書は焼き捨つる事も無しと云うべからず。兎も角も、人世に益無き書は著すべからず、読むべからず。自他に益無き事は為すべからず(二宮翁夜話/第149章)」。

3.口当たりはよく、気分もよくなるけれど有害な飲食物は沢山ある。
  耳当りはよく、気持ちを昂ぶらせてくれるけれど間違っている言論も山ほどある。
  激しく興奮させたり、喧嘩をさせたり、服を脱がせたりするのは、酒か麻薬かだ。
  暴動を起させたり、戦争させたり、堕落させたりする論説は、虚偽か迷妄だ。
「人々よ、地上にあるもののうち、許されたよきものを食べよ。決してサタンの歩みについていってはならない。彼こそお前たちの明白な敵である。彼はお前たちに悪事と醜行のみを命じ、また、お前たちに神について知りもせぬことばかりいわせようとする。もし彼らに向かって『神が下し給うたものに従え』と言うならば、彼らは『否、我々は祖先が見出したところに従う』と言うであろう。一体彼らの祖先が何も分からず、正しい道に導かれなかったとしてもなのか(コーラン2:168)」

4.どれだけ美味くて栄養ある料理でも、腹に詰め込み過ぎると具合が悪くなる。
  どれだけ面白くて教訓溢れた話でも、頭に詰め込み過ぎるとしばらく動けなくなる。
  十分に咀嚼せよ、食べ物を消化するには思った以上に時間がかかるものだ。
  精神を立派に育みたければ、日常の出来事をよく吟味することだ。
「先生曰く、凡そ飲食は唯是れ我が身を養うことを要す。食へば消化するを要す。もし徒に蓄積して肝裏に在れば、即ち病となる。如何ぞ骨肉の養わん。後世の学者は、博聞多識、胸中に留滞す。皆食に傷るるの病也(伝収録/下巻)」

5.栄枯盛衰は草木に同じ
  柔軟だが決して折れず、分裂を続けているのが繁栄。
  頑迷固陋で一生懸命保身を図り、和平統合に急ぐのは衰亡。
  束ねられた枝は、薪にされるほかはあるまい。
「枝は枯れて折れ、女たちが来てそれを燃やす。
これは全く分別のない民だ。
それゆえ、造り主は憐れみをかけず
その民を形作られた方は恵みを与えられない(イザヤ書27:11)」

6.健康な樹に栄養剤を注入すると、急激に繁茂するが、それが尽きると直ちに衰弱する。
  健全な社会に巨莫な資金を投入すると、急激に繁栄するが、忽ちにして不況に陥る。
  栄養剤で育てられ、支えられる樹などは早いところ切ってしまった方がよい。
  公的資金で支えられる経済は、税金を納められずに、負債で身を滅ぼすことになる。
「現世の生活はただの戯れにすぎない。享楽と虚飾である。お前たちは互いに誇り合い、財産や子供の数を競い合っているに過ぎない。これを譬えてみれば、雨後の草木のようなもの。背信者どもを一時喜ばせるが、すぐに枯れ、黄色になり、やがて屑になってしまう。来世には厳罰もあるが、他方、神のお赦しもご喜悦もある。この世の生活は欺きの享楽に過ぎない(コーラン57:20)」

7.蜜を零している樹は、蟻にたかられて、朽ち果てる。
  富を誇っている国は、移民が押し寄せて、朽ち果てる。
  鳥が宿っているならば、それも駆除して貰えるだろう。
  国に賢者がいるならば、必ず移民を追い出すだろう。
「私は悪者の横暴を見た。
彼は、生い茂る野生の木のように蔓延っていた。
だが、彼は過ぎ去った。見よ、彼はもういない。
私は彼を捜し求めたが見つからなかった(詩篇37:35)」

8.葉や実を見れば、樹の状態もわかるのではないか。
  民の体や言動を観察すれば、国家の状態もわかるのではないか。
  若い枝葉に元気がなくなるのは、枯れた枝葉がいつまでも栄養を奪っているからではないか。
  若者が働かなくなるのは、福祉制度に異常があるからではないか。
「翁曰く、樹木を植へるに、根を伐る時は、必ず枝葉をも切り捨つるべし。根少なくして水を吸う量少なければ、枯るるもの也。大いに枝葉を剪り空かして、根の力に応ずべし。譬えば一家の稼ぎ手欠け家株の減ずるは、植え替へたる樹の、根少なくして水を吸ひ上げる力の減じたれば也。此の時は策を立て、大いに暮らし振りを縮めざるを得ず。稼ぎ手少なき時大いに暮らせば、身代日々減少して終に滅亡に至る。根少なくして枝葉多き木の、終に枯るるに同じ、如何とも仕方無きもの也。暑中と雖も、木の枝を大方剪り捨て、葉を残らず挟み取りて、幹を菰にて包みて植へ、時々此の菰に水を注ぐ時は、涸れざるもの也。一家も国家も此の理也。思案すべし(二宮翁夜話/第145章)」

9.憎いのではなく、邪魔なのでもなく、葡萄を愛するからこそ、農夫は枝を剪定するのではないか。
  疫病や飢饉で民が減ったり、貧しくなるのは、呪いではなく、神の愛ではないか。
  余計な枝葉を剪らないと、よい実は結ばない。
  傑出した人間が生まれるのは、戦乱と疫病と飢饉の時代だけ。
「イスラエルの家は万軍の主の葡萄畑
主が楽しんで植えられたのはユダの人々。
主は裁きを待っていたのに  見よ、流血
正義を待っておられたのに  見よ、叫喚(イザヤ書5:1)」

10. 剪定されてしまったからといって、切り落とされた枝葉が農夫を恨むだろうか。
  寧ろそれによって、充実したよい実が結ぶ事を喜び楽しむのではないか。
  疫病や飢饉によって、死に委ねられた子供たちが神を恨むだろうか。  
  葡萄の樹からすれば、剪定もせず、無闇に水や肥やしを与える農夫の方をこそ恨むのではないか。
「我らは、少し恐ろしい目に遭わせたり、飢えで苦しめたり、また財産、生命、収穫などに損害を与えてお前たちを試みることがある。しかし汝は、耐え忍ぶ者には朗報を伝えてやるがよい。すなわち、禍がふりかかったときにも、『我々は神のもの。我々は神の御元に帰る』と言う者のことである。これらの人々の植えには、主の祝福と御恵みが下される。これこそ正しい道に導かれる人々である(コーラン2:155)」

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