1.道や川や池などはすぐに作ることができるが、山はそうはいかない。
制度や法律などはいくらでも作れるが、一度取り潰してしまうと権威は取り戻せない。
気の遠くなるほど時間をかけて山は生まれる。
権威や伝統を壊すことは人間にできるが、それを作ることができるのは歴史だけだ。
「彼らは悪巧みを企んだ。彼らの企みが、たとえ山を移動させるほどのものであっても、神の御元には筒抜けである。それゆえ、神が使徒たちとのお約束を違え給うなどと考えてはならない。神は尊厳にして仇に報い給うお方である。
大地が大地でないものに変わり、天もまたそうなる日、彼らは唯一にして全能者なる神の御前に出てくる。その日こそ、罪人どもが枷を嵌められて繋ぎ合わされている様を、汝に見せてやろう。彼らの下着は瀝青で、顔は火で覆われている。神がそれぞれに、稼ぎに応じて報い給うためである。神は計算の早いお方である。これが人間への伝言である。すなわち、皆がこれによって警告を受け、神が唯一のお方であることを知り、そして分別ある者が反省する為のものである(コーラン14:46)」
2.覗かなくても、火口が熱いのは、流れ出た溶岩を見ればわかる。
近づかなくても、戦地が危険なのは、難民を見れば分かる。
放っておけ、水を注いだって、噴火の収まる訳が無い。
他国が善意を手向けたって、内戦の収まる筈が無い。
「業火の住人達は、楽園の住人たちに呼びかけて言う、『我々に水を注いで下さい。或いは、なんなりと神から賜ったものでも』。すると彼らは言う、『神はどちらも不信者に禁じられました』。彼らは、宗教を戯れか遊びと見做し、現世の生活に欺かれた人々である。それ故、彼らがこの日の対面を忘れて、我らのしるしを拒否したように、今日こそ我らの方でも彼らを忘れてやる(コーラン7:50)」
3.川の流れる方角を変えることはできるが、水のその本性を変えることはできない。
民衆の目指す方角を変えることはできるが、人間の其の本性を変えることはできない。
できないことをできると思うのも、できることをやらないのも愚か者だ。
水も民も、よい方向に導けば沢山の収穫を生むが、放っておくと大変な災いを齎す。
「故に曰く、民を治むるには水燎を治むるが如くし、民を養ふには六畜を養ふが如くし、民を用ふるには草木を用ふるが如くす、と(管子/第6章)」
4.水が溢れてきてから、堤防を作ろうとしても無理な相談だ。
民が暴れだしてから、治安部隊を作っても、ほとんど役に立たない。
大雨が降っても、備えさえしておけば、被害は驚くほど小さくて済む。
十年に一度でも、百年に一度でも、その可能性があるなら堤防を作れ。
「洪水は溢れる度にお前達を捕らえる。
それは朝ごとに溢れ、昼も夜も溢れる。
この御告げを説き明かせばただ恐怖でしかない。
寝床は短くて身を伸ばすことができず
覆いは狭くて身を覆うことができない(イザヤ書28:19)」
5.嵐の日に、戸外の足音を聞き取るためには
雨風の音を聞かないようにしなければならない。
神の言葉を聞きたいなら、人間の言葉などに耳を貸すな。
神は、嵐の夜、盗人のようにしてやってくる。
「見よ、主の怒りの嵐が吹く。
嵐は荒れ狂い、神に逆らう者の頭上に吹き荒れる。
主の激しい怒りは、思い定められたことを成し遂げるまでは止まない。
終わりの日に、あなたたちはこのことを悟る(エレミヤ書30:23)」
6.溺れるな、快楽は海水、飲めば飲むほど喉が渇く。
潮風は鉄筋を腐らせ、淫猥な風俗は根性を錆びさせる。
曲がった鉄は叩けば直るが、腐った鉄はどうにもならない。
足を湿らすくらいで止まれ、胸まで浸かれば流される。
「人が法律について考察を巡らすとき、その考察のほとんど全ては、国家の場合と個人の生活とを問わず、快楽と苦痛のことで占められています。というのも、それら快楽と苦痛は、二つの泉として、自然のまま流れるに任されているものですが、その水を、然るべき所から、然るべき時に、然るべき分量だけ汲み取る者は、国家であれ個人であれ、いや生きている者は全て、等しく幸福になる。しかし、その弁えもなしに、然るべき時に外れてこれを汲み取る者は、幸福に反する仕方で暮らすことになるからです(プラトン/法律第1巻636D)」
7.魚は沢山あるけれど、寿司屋が釣ってきたわけではない。
知識は沢山あるけれど、先生方は握って並べているに過ぎない。
どれだけ寿司を平らげても、魚を釣れるようにはならない。
だらしなく太るだけで、味を知っていることは、自慢にならない。
「また神は、お前達が活きのよい魚肉をとって食べたり、身に着ける飾り物を採集することができるように、海を役立て給うお方である。何時は海を突進する船を見るであろう。これはお前達が主の恩恵を求めるようにさせるためであり、恐らく御前達は感謝を奉げるであろう(コーラン16:14)」
8.名前は違うが同じ魚が世界中の港から水揚げされる。
呼称は異なるが、同じ思想や技術が遠く離れた国でも発表される。
最初に釣って捌いたからといって、この魚は自分が生んだなんていうのは馬鹿者だ。
最初に提唱したからといって、自分が学問や技術の生みの親だなんて思うな。
「夫れ海は天下の公海也。学は天下の公学也。思・孟・程は、意無くして千載の下に相遇う(伝習録/中巻)」
9.釣り人からすれば、底引き網も養殖も生業を脅かす天敵だ。
自営業者からすれば、資本主義も共産主義も同じことだ。
必要なときに、必要なだけ釣り、感謝して食べよ。
獲れる時に獲れるだけ獲るというなら、すぐに魚はいなくなる。
「ああたまらん! 真っ平御免被る
あんな暴君制度と奴隷制度の戦いなんて見せないでおくれ。
わしには退屈でならん。片付いたかと思うと
また初めからやり出すんだ。
しかも、うしろに隠れている不和の悪魔アスモデウスに
弄ばれているに過ぎないってことを、誰も気づかない。
自由の権利のための戦いとは称するものの
よく見れば奴隷対奴隷の戦いにほかならない!(ゲーテ/ファウスト第2部6956)」
10.波間に魚影を見たならば、どうして自分で獲らないのか、魚は獲った者勝ちだ。
頭に疑問が過ぎったならば、どうして自分で解かないのか、学理は解いた者勝ちだ。
経験がなくても、試しに比喩を撃ってみよ、まぐれでも当ればやがて浮いてくる。
大物を釣りたければ沖に出よ、浜辺にいては貝殻くらいしか拾えない。
「天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網が一杯になると岸に引き上げ、座り込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。だから、天の御国の弟子となった学者は皆、自分の蔵から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです(マタイ伝13:52)」
制度や法律などはいくらでも作れるが、一度取り潰してしまうと権威は取り戻せない。
気の遠くなるほど時間をかけて山は生まれる。
権威や伝統を壊すことは人間にできるが、それを作ることができるのは歴史だけだ。
「彼らは悪巧みを企んだ。彼らの企みが、たとえ山を移動させるほどのものであっても、神の御元には筒抜けである。それゆえ、神が使徒たちとのお約束を違え給うなどと考えてはならない。神は尊厳にして仇に報い給うお方である。
大地が大地でないものに変わり、天もまたそうなる日、彼らは唯一にして全能者なる神の御前に出てくる。その日こそ、罪人どもが枷を嵌められて繋ぎ合わされている様を、汝に見せてやろう。彼らの下着は瀝青で、顔は火で覆われている。神がそれぞれに、稼ぎに応じて報い給うためである。神は計算の早いお方である。これが人間への伝言である。すなわち、皆がこれによって警告を受け、神が唯一のお方であることを知り、そして分別ある者が反省する為のものである(コーラン14:46)」
2.覗かなくても、火口が熱いのは、流れ出た溶岩を見ればわかる。
近づかなくても、戦地が危険なのは、難民を見れば分かる。
放っておけ、水を注いだって、噴火の収まる訳が無い。
他国が善意を手向けたって、内戦の収まる筈が無い。
「業火の住人達は、楽園の住人たちに呼びかけて言う、『我々に水を注いで下さい。或いは、なんなりと神から賜ったものでも』。すると彼らは言う、『神はどちらも不信者に禁じられました』。彼らは、宗教を戯れか遊びと見做し、現世の生活に欺かれた人々である。それ故、彼らがこの日の対面を忘れて、我らのしるしを拒否したように、今日こそ我らの方でも彼らを忘れてやる(コーラン7:50)」
3.川の流れる方角を変えることはできるが、水のその本性を変えることはできない。
民衆の目指す方角を変えることはできるが、人間の其の本性を変えることはできない。
できないことをできると思うのも、できることをやらないのも愚か者だ。
水も民も、よい方向に導けば沢山の収穫を生むが、放っておくと大変な災いを齎す。
「故に曰く、民を治むるには水燎を治むるが如くし、民を養ふには六畜を養ふが如くし、民を用ふるには草木を用ふるが如くす、と(管子/第6章)」
4.水が溢れてきてから、堤防を作ろうとしても無理な相談だ。
民が暴れだしてから、治安部隊を作っても、ほとんど役に立たない。
大雨が降っても、備えさえしておけば、被害は驚くほど小さくて済む。
十年に一度でも、百年に一度でも、その可能性があるなら堤防を作れ。
「洪水は溢れる度にお前達を捕らえる。
それは朝ごとに溢れ、昼も夜も溢れる。
この御告げを説き明かせばただ恐怖でしかない。
寝床は短くて身を伸ばすことができず
覆いは狭くて身を覆うことができない(イザヤ書28:19)」
5.嵐の日に、戸外の足音を聞き取るためには
雨風の音を聞かないようにしなければならない。
神の言葉を聞きたいなら、人間の言葉などに耳を貸すな。
神は、嵐の夜、盗人のようにしてやってくる。
「見よ、主の怒りの嵐が吹く。
嵐は荒れ狂い、神に逆らう者の頭上に吹き荒れる。
主の激しい怒りは、思い定められたことを成し遂げるまでは止まない。
終わりの日に、あなたたちはこのことを悟る(エレミヤ書30:23)」
6.溺れるな、快楽は海水、飲めば飲むほど喉が渇く。
潮風は鉄筋を腐らせ、淫猥な風俗は根性を錆びさせる。
曲がった鉄は叩けば直るが、腐った鉄はどうにもならない。
足を湿らすくらいで止まれ、胸まで浸かれば流される。
「人が法律について考察を巡らすとき、その考察のほとんど全ては、国家の場合と個人の生活とを問わず、快楽と苦痛のことで占められています。というのも、それら快楽と苦痛は、二つの泉として、自然のまま流れるに任されているものですが、その水を、然るべき所から、然るべき時に、然るべき分量だけ汲み取る者は、国家であれ個人であれ、いや生きている者は全て、等しく幸福になる。しかし、その弁えもなしに、然るべき時に外れてこれを汲み取る者は、幸福に反する仕方で暮らすことになるからです(プラトン/法律第1巻636D)」
7.魚は沢山あるけれど、寿司屋が釣ってきたわけではない。
知識は沢山あるけれど、先生方は握って並べているに過ぎない。
どれだけ寿司を平らげても、魚を釣れるようにはならない。
だらしなく太るだけで、味を知っていることは、自慢にならない。
「また神は、お前達が活きのよい魚肉をとって食べたり、身に着ける飾り物を採集することができるように、海を役立て給うお方である。何時は海を突進する船を見るであろう。これはお前達が主の恩恵を求めるようにさせるためであり、恐らく御前達は感謝を奉げるであろう(コーラン16:14)」
8.名前は違うが同じ魚が世界中の港から水揚げされる。
呼称は異なるが、同じ思想や技術が遠く離れた国でも発表される。
最初に釣って捌いたからといって、この魚は自分が生んだなんていうのは馬鹿者だ。
最初に提唱したからといって、自分が学問や技術の生みの親だなんて思うな。
「夫れ海は天下の公海也。学は天下の公学也。思・孟・程は、意無くして千載の下に相遇う(伝習録/中巻)」
9.釣り人からすれば、底引き網も養殖も生業を脅かす天敵だ。
自営業者からすれば、資本主義も共産主義も同じことだ。
必要なときに、必要なだけ釣り、感謝して食べよ。
獲れる時に獲れるだけ獲るというなら、すぐに魚はいなくなる。
「ああたまらん! 真っ平御免被る
あんな暴君制度と奴隷制度の戦いなんて見せないでおくれ。
わしには退屈でならん。片付いたかと思うと
また初めからやり出すんだ。
しかも、うしろに隠れている不和の悪魔アスモデウスに
弄ばれているに過ぎないってことを、誰も気づかない。
自由の権利のための戦いとは称するものの
よく見れば奴隷対奴隷の戦いにほかならない!(ゲーテ/ファウスト第2部6956)」
10.波間に魚影を見たならば、どうして自分で獲らないのか、魚は獲った者勝ちだ。
頭に疑問が過ぎったならば、どうして自分で解かないのか、学理は解いた者勝ちだ。
経験がなくても、試しに比喩を撃ってみよ、まぐれでも当ればやがて浮いてくる。
大物を釣りたければ沖に出よ、浜辺にいては貝殻くらいしか拾えない。
「天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網が一杯になると岸に引き上げ、座り込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。だから、天の御国の弟子となった学者は皆、自分の蔵から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです(マタイ伝13:52)」