和歌山市内にある保健所の横にあるお寺にやってきました。
無量光寺です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/6f/6dd4295e30457e6d58c962de33b30359.jpg)
お庭がすごくきれいです。
お寺って言うよりか、お金持ちのお家って感じです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/5d/a8428cc29930e420e6462fc774429b2a.jpg)
入ったのが正面の門から入っていないのでなおさらかも…
でこちらに来た目的はこちらです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/79/e5d0c42f98c73922ddafb9f308b2621f.jpg)
大きな大仏の顔だけがあります。
あまり横から撮影された記事が無いように思ったので
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/ca/34fa016d96490718e9353aa0902f1f3b.jpg)
横にありました看板
いつものように機械的に文字化してみました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/ee/914b3cd1b63009d42eedf771d42573f9.jpg)
首大佛様(おほとけさま)の縁起
江戸時代の半ば和歌山城下の武家屋敷で仲間として奉公する一少年あり、
若いにも拘らず常に手に珠数を携え、口には念佛唱名の熱心な求道者で
あった。二十歳をすぎた頃出家の志を立て故郷の大橋村(現在の日高郡
「南部川村)の菩提寺萬福寺で剃髪出家の儀式を受け京都の本山に登嶺、
「三年間の修行にて浄土宗の僧侶となり蓮心(一六九九~一七六八年)と
-名のる。二年後和歌山へ帰りつき納定の一庵(後に大福寺と称す。跡地に
宮北小学校が建っている)に住す。庵にて念佛修行中一丈六尺に及ぶ
佛様を目の前に拝む。その奇瑞を村人に語ると蓮心和尚の為ならと衆力に
より露座唐金の丈六佛ができ上った。その時の蓮心は三十歳(享保時代
一七三〇年頃)位と推定できる。以後納定の地から文六佛を中心に高声
念佛がひときわ響きたいへんな賑いをみせた。
蓮心滅後、六十七年目に丈六佛の隣りの本堂が火災、天六佛も炎上。
一時は嘆にくれた村人も再興を発願、第二代は鎌倉の大佛様を目標にと
先ず毘盧舍那佛のお首だけを溶銅で鋳造、天保十一年(一八四〇年)
川七月二十四日開眼大法要が営まれた。御首に佛体を継がんことを度に
企てられるも、世勢の騒擾に思うに委せず、大福寺の伽藍も安政元年の
大地震で全部潰滅に帰してより寺の維持も困難となり遂に明治四十一年
(一九〇八年)廃寺、首大佛は本寺である無量光寺に安置され、爾末
納定の時代と同様温容を以て慈悲心辱の恵みを参詣者に垂れ給うのである。
今も生きている蓮心の願い
蓮心の優しさ、思いやりが「紀伊の大佛縁起」に次の通り記されている。
「蓮心は堂内にネズミの死体を見出してはその供養に二昼夜の別時行儀
念佛を修め、夜半盗賊入って浄財用度を強奪して行った後では盗賊の
罪障消滅の為に二昼夜の看経を遂げるなど、一虫一草善悪の上に超越して、
佛縁に絶る有様であったから、其の功徳は自然を感応し、利生化他の益
となって近隣の崇敬愈々篤くなって行った。」
ネズミや盗賊の為にも思いをかけ、成佛を願う心は宗教の極致であり、
その蓮心の心が首大佛様の中にこもっていて、今尚参拝者の心とひびき
あうものがあると云えましょう。
江戸時代の半ば和歌山城下の武家屋敷で仲間として奉公する一少年あり、
若いにも拘らず常に手に珠数を携え、口には念佛唱名の熱心な求道者で
あった。二十歳をすぎた頃出家の志を立て故郷の大橋村(現在の日高郡
「南部川村)の菩提寺萬福寺で剃髪出家の儀式を受け京都の本山に登嶺、
「三年間の修行にて浄土宗の僧侶となり蓮心(一六九九~一七六八年)と
-名のる。二年後和歌山へ帰りつき納定の一庵(後に大福寺と称す。跡地に
宮北小学校が建っている)に住す。庵にて念佛修行中一丈六尺に及ぶ
佛様を目の前に拝む。その奇瑞を村人に語ると蓮心和尚の為ならと衆力に
より露座唐金の丈六佛ができ上った。その時の蓮心は三十歳(享保時代
一七三〇年頃)位と推定できる。以後納定の地から文六佛を中心に高声
念佛がひときわ響きたいへんな賑いをみせた。
蓮心滅後、六十七年目に丈六佛の隣りの本堂が火災、天六佛も炎上。
一時は嘆にくれた村人も再興を発願、第二代は鎌倉の大佛様を目標にと
先ず毘盧舍那佛のお首だけを溶銅で鋳造、天保十一年(一八四〇年)
川七月二十四日開眼大法要が営まれた。御首に佛体を継がんことを度に
企てられるも、世勢の騒擾に思うに委せず、大福寺の伽藍も安政元年の
大地震で全部潰滅に帰してより寺の維持も困難となり遂に明治四十一年
(一九〇八年)廃寺、首大佛は本寺である無量光寺に安置され、爾末
納定の時代と同様温容を以て慈悲心辱の恵みを参詣者に垂れ給うのである。
今も生きている蓮心の願い
蓮心の優しさ、思いやりが「紀伊の大佛縁起」に次の通り記されている。
「蓮心は堂内にネズミの死体を見出してはその供養に二昼夜の別時行儀
念佛を修め、夜半盗賊入って浄財用度を強奪して行った後では盗賊の
罪障消滅の為に二昼夜の看経を遂げるなど、一虫一草善悪の上に超越して、
佛縁に絶る有様であったから、其の功徳は自然を感応し、利生化他の益
となって近隣の崇敬愈々篤くなって行った。」
ネズミや盗賊の為にも思いをかけ、成佛を願う心は宗教の極致であり、
その蓮心の心が首大佛様の中にこもっていて、今尚参拝者の心とひびき
あうものがあると云えましょう。
と書いていると思います。
反対側には
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/5c/889194cdd4c66d93471fdd803ac20536.jpg)
徳本行者 の像がありました。
こちらに有る大仏様は「首から上の願いを叶える」と云われ、
多くの受験生らが参詣するとの事です。