この周辺はお寺まみれですが、その内の一軒
報恩寺 です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/99/42932a30367c4c7d7fcf5025319ee5dd.jpg)
和歌山西警察の隣に有ります。
入り口横にあった看板
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/a0/b86e44b97bf3a7b56155d3fbf94a428b.jpg)
そこには(いつもの機械による文字化です)
報恩寺緣起
報恩寺は、もとを要行寺といい、慶長7年(1609年)に建され、
後、寛文6年(1666年)に紀州德川家藩立德川赖宣公夫人婚精选
の追善善提の為息子である真公が要行寺を報恩寺と改め、一カ所
本山として寛文9年に小説短松代主日順上人を招き、寺領250石を
寄進し開山導師としました。
以、当山は紀州徳川家代々の著提寺としてまた和歌山城下唯一の
武士寺として親しまれ今日に至っています。 ミ
報恩寺は、もとを要行寺といい、慶長7年(1609年)に建され、
後、寛文6年(1666年)に紀州德川家藩立德川赖宣公夫人婚精选
の追善善提の為息子である真公が要行寺を報恩寺と改め、一カ所
本山として寛文9年に小説短松代主日順上人を招き、寺領250石を
寄進し開山導師としました。
以、当山は紀州徳川家代々の著提寺としてまた和歌山城下唯一の
武士寺として親しまれ今日に至っています。 ミ
最後のミってのがお茶目だったのでそのままに…(^^ゞ
中には本堂が有るのですが、さらに門が
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/bb/06a9fbbe8b015337f7b6a6f93f1bd010.jpg)
こちらの門は閉まっていまして、横のお墓方面に
行くのですが、その脇に本堂側に入れる所が有りました。
そこを入って奥の方に行くと、徳川の紋が有る門が
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/af/dd3b56576f8522d014686f288febfbcd.jpg)
こちらが今回の目的 瑤林院墓碑 への入り口です。
脇に看板が有りましたが、こちらは劣化で認識できません
でしたので、人力で…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/d2/e2b55990a11d6486b2c84c6c006f26a6.jpg)
多分合っていると思いますが、一部解読不可の文字が有り。
和歌山市指定文化財(史跡)
瑤林院墓碑 昭和46年1月9日指定
瑤林院は初代紀州藩主徳川頼宣の夫人であ
る。
慶長六年(1601)に加藤清正の五女として
肥後熊本に生まれ名を八十姫といった。幼時
から聰明で容姿端正であったと伝えられる。
元和三年(一六一七)当時駿河遠江藩主で
あった徳川頼宣と結婚し元和五年に頼宣
の紀州入国に伴って和歌山へ移った。
寛文六年(一六六六)没の墓碑は砂岩製の
印塔で高さ四.四メートル有る。
昭和五十九年十一月
和歌山市教育委員会
瑤林院墓碑 昭和46年1月9日指定
瑤林院は初代紀州藩主徳川頼宣の夫人であ
る。
慶長六年(1601)に加藤清正の五女として
肥後熊本に生まれ名を八十姫といった。幼時
から聰明で容姿端正であったと伝えられる。
元和三年(一六一七)当時駿河遠江藩主で
あった徳川頼宣と結婚し元和五年に頼宣
の紀州入国に伴って和歌山へ移った。
寛文六年(一六六六)没の墓碑は砂岩製の
印塔で高さ四.四メートル有る。
昭和五十九年十一月
和歌山市教育委員会
そちらを超えると 石畳の階段と道が
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/5b/1fb53c1263d7559ecc27af9d873331e0.jpg)
さらに進むと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/c8/66d8fcc0a1fb3ee91b3acb7aefe53d2e.jpg)
それらしき場所に到着します。
その先にいくつかのお墓が有りました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/1d/c91af14be4c1a293f2a006e1e85f3eed.jpg)
和歌山と言えど、和歌山の真ん中にこんな場所が有るとは
と思えるくらいひっそりとしています。
徳川頼宣のお墓は和歌山の下津に有るとの事です。