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中世のバサラ武士、佐々木道誉ゆかりの丸亀城

2024-08-31 10:59:27 | 日記

日本一の石垣で有名な名城とも言われる丸亀城は、現存十二天守の中で一番小さな天守を持つ日本百名城にも選ばれています。「扇の勾配」と呼ばれる石垣が山麓から山頂まで4重に重ねられ、総高60mの規模で、三の丸石垣だけでも一番高い部分が22mもあるようです。現存天守でもっとも小規模ながら、本丸にある御三階櫓は丸亀城は1615年の「一国一城令」により破却の危機に、当時の藩主である生駒正俊が要所々を樹木で覆い隠して立ち入りを制限し、城を破却から守ったと伝わります。後に山崎氏、京極氏が入封し、城の修築を行われます。現在の天守(御三階櫓)や石垣は京極氏の時代に完成されたようです。

お堀からの丸亀城

標高約66mの亀山に築かれた平山城で、別名亀山城と呼ばれています。本丸・二の丸・三の丸・帯曲輪・山下曲輪があり、東西約540m・南北約460mのうち内堀内の204,756平方メートルが史跡範囲とのこと。「石の城」と形容される丸亀城は石垣の名城として有名です。大手門から見上げる夕暮れの天守はちんまいながらも威厳にがあり、心が和みます。400年の時を経た今日でも決して色あせることなく、自然と調和した独自の様式美がうかがえて現在に残しています。(公財)日本城郭協会が選定した「日本100名城」にも選ばれ、花見や散歩など市民の憩いの場として親しまれています。

本丸の現存木造天守

山上の最高所が本丸は、天守のほかに隅櫓・渡櫓・土塀が石垣上に巡っていました。礎石、排水路も一部復元しています。高さが約15m程あり、三重三階の造りで、全国に12しか残っていない木造天守の1つです。四国に残る木造天守の中では最も古く、1660年に完成しました。唐破風や千鳥破風を巧みに配置し、北側には石落しや素木の格子を付け、意匠を凝らしています。天守の入場は有料(’24年時は大人200円)です。 讃岐富士を正面に見れる月見櫓からは風光明媚な景観が楽しめます。

本丸西側の石垣

見返り坂を登りきると二の丸と三の丸に、三の丸南側・搦手口は山崎時代の大手とか、ハバキ石垣はサヤ石垣とも呼ばれる石垣が見どころです。石垣が膨らんだ箇所が崩れないように外側から押さえて保護する役割があるようです。
ハバキ石垣も山崎時代に築かれたようで、建物が建っているので石垣を解体修理をせず、ハバキ石垣を築き石垣保護をされたと思います。石垣が有名な丸亀城は「石垣の名城」と言われ、城郭石垣を築く技術が最高水準?江戸時代初期に作られ、優れた技術の石垣を見ることができます。特に丸亀城の主要な石垣は、高くて美しい曲線が特長です。

高石垣と算木積

丸亀城三の丸は高石垣で築かれ北側の石垣は、丸亀城の石垣の中で最も高く、20m以上の城壁が続きます。隅角部の石垣は算木積みされた美しい曲線美で、「扇の勾配」と呼ばれています。

石垣の隅角部(出隅)の石垣は算木積みと呼ばれる積み方です。角石は長方体の石を用い、長い面を大面、短い面を小面といい、大面と小面を交互に組み合わせ小面の角石の横には角脇石を配することで、より強固な積み方となり、美しい勾配の高石垣を築けるようになったようです。

大手二の門

一の門と同時に建てられた、高麗門形式の門です。大手とはお城の正面のことを指し、追手とも言われるようです。大手二の門は丸亀城の顔にふさわしく、石垣に使用される石は大きく、ノミの跡も美しく仕上げられています。大手枡形は城の正面玄関であり、鏡石と呼ばれる2mを超える大きな石が用いられています。鏡石は大手枡形などの城の重要な箇所に魅せる石垣として用いられたようです。

江戸時代からの現存建物の太鼓門とも呼ばれた大手一ノ門は、大手二ノ門、天守と共に国の重要文化財に指定です。大手一ノ門は内部が無料公開されていて、備え付けの布草履に履き替えて見学が可能、攻め寄せる敵を撃退する「石落とし」や、鯱なども展示されてました。

玄関先御門から見る天守

京極氏屋敷の表門にあたる旧藩主居館だった玄関先御門は、「御殿表門」とも呼ばれ、江戸時代初期に建てられました。お城の門としては珍しい薬医門形式で、屋根越しに見える天守との調和も素晴らしい。高々と積まれた石垣日本一高い丸亀城は、お堀から天守まで、総高60mにも及ぶようです。その石垣の上に、日本一小さな天守がちんまりと乗っている感じです。

アクセス

電車の利用ですとJRで四国に渡り、予讃線のJR丸亀駅を下車し徒歩15分ほどで丸亀城跡の城門に到着します。城跡辺りにはコンビニやお好み焼屋さんも、30分程歩けばうどん屋も有って飲食物には困らないと思います。丸亀城跡に来られる方は、他の観光地にも寄られる方が多いです。高松城(JR高松駅下車)や金比羅さん(JR金刀比羅駅下車)へのアクセスも電車ですと丸亀を拠点にすれば便利だと思います。

 


国宝犬山城跡の必見は木造天守

2024-08-19 15:25:18 | 日記

犬山城は愛知・岐阜の境目を流れる木曽川に沿って、古くから尾張と美濃の防衛の要所として重要な役割を担っていました。現存天守では最も古い木造天守の建築物で、室町時代の1537年に織田信長の叔父・信康が築城し、唯一現存する天守は戦国期から江戸初期までに建造された現存12天守の一つです。国宝天守5城のうちの一つでもあり、貴重な歴史的建造物でお城フアンに人気があります。

国宝犬山城

北方に木曽川が流れる犬山城は、南方からの入場になります。犬山城の木造天守は、現存天守の中でも最も古いと云われて1537年に建てられて以来、数度の改良を重ねながら、江戸時代初期に現在の姿になったそうです。お城の木材の多くは築城当時のものとのこと、床のすき間や歩くときの軋み音に歴史が感じられます。1階では中央部分の四つの部屋と、部屋を取り囲む”武者走り”と呼ばれる通路が見れます。

扇状地である濃尾平野の扇の要に位置し、天守最上階からの眺めは見晴らしも良く絶景です。信長・秀吉・家康がそれぞれの時代に犬山城の城主は変わりますが、歴史の荒波を生き残った犬山城の天守内部に入ると当時のつわもの達の息遣いも感じられるようです。

石垣の沿って歩く

織田信康が戦死してからは犬山城の城主が目まぐるしく変わり江戸時代に入り、1617年に徳川家の重臣 成瀬正成が城を拝領。このときお城に改良が加えられ、現在の天守の姿ができたと伝わり以後、成瀬家が幕末まで城主を務めることになります。

本丸、杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸を南方に階段状に連ねて配置された犬山城は標高80mの城山に築かれた背後が断崖に守られた堅固の城です。天守の他に現存する建物はありませんが、本丸の石垣と空堀が残されているようです。

城内で見れる石垣

歴史を刻む木造建築、天守内部地階の様子や築城当時の木材も多く残されて見どころの多い犬山城です。国宝と思わせる歴史を刻んだ古木材と城内廊下や階段を歩くとミシミシと鳴る木が軋むような音や、柱や床の隙間などもリアルでスぺリチュアルな雰囲気も五感に感じられます。

展示される武具甲冑

天守一階の廊下をギシギシと軋み音を鳴らして歩くと、北側壁沿いに鎧甲冑が何体か展示されています。 江戸時代に城主だった成瀬家の家臣のものと思われる甲冑もありますが、私の知識識不足と説明板が少ないためか?本物なのかレプリカなのか??重要さもよくわかりませんでしたが、ただビジュアル的には戦国時代からの歴史は感じられました。

天守から望む景観

木曽川沿いにそびえる雄姿を長江沿いに建つ中国の城に例えられ、犬山城は別名で白帝城とも呼ばれるようです。望楼型の天守最上階からは絶景をご覧いただけます。周囲を確認できるよう、天守最上階を取り巻く回廊(廻り縁)があり、天気が良い日には、美しい木曽川の眺めや、御嶽山、岐阜城も?山あり川ありの展望風景が楽しめます。

アクセス

名古屋からは名鉄犬山線に乗り約30分ほどの「犬山駅」で下車、城下町をぶらぶらっと歩いても30分程で城門に着きます。名鉄電車を利用し犬山城見学と城下町での食べ歩きも楽しめる「犬山城下町きっぷ」のお得切符もあるようです。犬山城の城下町は、築城と同時に整備されて天守とともに、戦火を逃れ、当時と変わらない町割りが残っています。通りには、古い屋敷や町屋が並び、レトロな雰囲気が残ります。建物を見ながら歩くだけでも観光気分を満喫、写真スポットでもあります。城下の東側にある庭園「有楽苑」は、織田信長の弟・有楽斎が建てた茶室「如庵」が見学できるようです。茶道の歴史を伝える重要な文化財として、国宝に指定されているようです。


播磨の小京都と鶏籠山麓の龍野城

2024-07-04 09:59:41 | 日記

日本の中世時代に活躍をした赤松円心の由来、子孫が受継いだ赤松氏の龍野古城は、15世紀に標高211m 鶏籠山の山頂に赤松村秀によって築城されたのが始まりとされます。西播八郡の守護代を務めた龍野赤松氏の拠点として、村秀により築城されて以降、政秀、広貞、広英と4代続きましたが、秀吉の播磨侵攻の際に開城します。開城のあとは、秀吉が入った姫路城の支城となり、後に蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊、小出吉政と秀吉の最も信頼する重臣たちが城主になります。

龍野城 桜咲く前の隅櫓

龍野城の歴史は、赤松村秀が最初の城主となり、この地域を治めていました。赤松氏は政秀、広貞、広英と城主になり、4代の78年続きました。敵方・赤松氏に捕えられた幼少時の軍師 黒田官兵衛、父の黒田聖隆がこの龍野城に乗り込み、取り返したとの物語も伝わります。後に赤松広秀が豊臣秀吉に降伏し、城を明け渡します。その後に豊臣政権下で龍野城主となった石川光元が1596年に山上の龍野城を破却し、鶏籠山の麓に城を移します。

龍野城埋門

明治初期に廃城となった龍野城は、古い石垣ばかりが残るだけでしたが、整備されて昭和54年に本丸御殿や多聞櫓が復元され、武家屋敷や白壁の土蔵が残ります。龍野城とその城下町の観光プランは、町並み散策と山頂に一部石垣が残る鶏籠山城と本丸御殿、二城をセットで訪れると良いと思います。

城跡には復原された櫓門形式の埋門と武家屋敷や白壁の土蔵、「播磨の小京都」とも言われる城下町は、”男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け”のロケ跡地があって童謡「赤とんぼ」の作者・三木露風の生家や、淡口醤油の資料館など観光が楽しめます。重要伝統的建造物群保存地区のレトロな雰囲気が残る町並み散策をゆったりと過ごしましょう。

高麗門

西播八郡の守護代を務めた龍野赤松氏の拠点として、村秀により築城されて以降、政秀、広貞、広英と4代続きましたが、秀吉の播磨侵攻の際に開城します。その後は、蜂須賀正勝、福島正則ら、秀吉一門の武将が城主となります。
江戸時代になり、寛文12年(1672年)に脇坂安政が信州飯田から龍野に入部します。その際には山頂から山麓に機能が移っており、現在の位置に龍野城が整備され、明治まで使用されました。

本丸御殿

龍野城は、1672年に脇坂安政が築城。天守閣は有りませんが三方に石垣を巡らした龍野城が完成したようです。桜の時期には城内の桜の花が咲いて景観を高めて素晴らしく、復元されたは本丸御殿の中に入るのは無料、御殿見物と城壁、埋門などにふれて歴史散策をのんびりと楽しめます。

古城の標識

龍野城、もとは今の龍野城の裏にある鶏籠山の山頂に築かれていました。明応八年(1499年)に、赤松村秀が鶏籠山頂に城を築き、朝霧城と呼ばれて赤松氏四代がここを根城にします。典型的な中世の戦国・山城の龍野古城でしたが、戦乱が治まるにつれ城を山上に築くメリットが無くなり、天下平定が進む安土桃山時代頃から、城は平地に築かれるようになります。

二の丸

登城道のあちらこちらに石垣跡や削平地、帯曲輪跡らしき所が見られます。約30分ほど登り切った所に二の丸の標識が立ちます。城の中心となる本丸の外側にある城郭の二の丸は、広さが、東西に約14m、南北27mほどあるようです。城跡全体を見ると横堀や土塁、竪堀などの山城遺構が残り、戦国時代の山城の雰囲気を色濃く今も感じ取れます。

古城への石段

本丸の北東側には古城石段と名付けられた本丸へ続く石段が残り、その石段上のあがりますと本丸の石垣が今も残っています。

古城の本丸

二の丸から更に奥へ5分ほど入ると本丸跡に着きます。本丸の広さは、東西に約20m、南北に約14m程あるようです。二の丸も本丸はさほど広くなく狭いです。木々が繁っていて開けた展望とはいきませんが、木々の間から見える眺望は良いと思います。本丸裏の八幡宮跡の石畳や石段は良好な形で残っているようです。赤松氏の城としては、規模は大きくありませんが思っていた以上に遺構が残っており良かったと感じました。

アクセス

姫路からJR西日本・姫新線に乗り継ぎ、本竜野駅を下車します。改札口を出ると観光案内所がありますので資料をゲットして揖保川方向に歩き、揖保川渡る龍野橋からヒガシマル醬油工場が見えます。

城下町は昔ながら西播磨の中心的な場所だった龍野、町並み沿って揖保川が流れて風情が残ります。龍野橋を渡ると重要伝統的建造物群保存地区の町並みを抜けて龍野小学校に行くと家老門から山麓にある龍野城本丸隅櫓が見えます。鶏籠山の山頂・古城には夏場は避けましょう、山頂から下山は道迷いの可能性が有りますので目印・赤テープなど要チェックです。

 


忍者の郷、藤堂高虎が改修した伊賀上野城

2024-06-01 11:18:39 | 気ままな人生

筒井定次が築いた伊賀上野城、戦乱が過ぎ天下統一した徳川家康に従い藤堂高虎が大規模に改修する。豊臣氏を包囲する目的の伊賀上野城は、「大坂の役」で豊臣氏が滅び改修工事は中断しますが、再建され現存する木造天守です。天守には藤堂高虎の黒漆塗の兜や武具など展示品され、西国を睨む日本有数の高さを誇る高さ29.7m内堀の高石垣が有名です。

遠目に見る伊賀上野城跡

国史跡に指定される本丸跡の3層3階 天守、昭和初期の模擬天守ながら見応えのある本格的な城郭です。築城名手の藤堂高虎が築いた城は高い石垣でも有名です。豊臣家が滅亡し、天守等は作られませんでした。当時創建しようとしていた五層天守とは異なり、昭和初期に地元の政治家により木造 三層天守を残された城跡に伊賀上野文化産業城として再建、城を含めた近隣一帯は上野公園として散策が楽しめます。

高台の頂上を本丸にお城が、東寄りに三層の天守閣を建ちます。城下町は古くから開けた北側を中心としました。複合式天守の”昭和の城”は、伊賀文化産業城と名付けられ、優雅な姿から白鳳城とも呼ばれ伊賀市民の自慢のランドマークです。

まじかに見る天守

外観の白い三層の美しい城郭から「白鳳城」とも呼ばれています。三層からなる天守閣には武具・甲冑や藤堂家の遺品、横山大観をはじめ名士の色紙46点の天井絵が展示されています。最上階の天井には、横山大観などの色紙46点が飾られおり、そこから城下町一円を見下ろす眺めも格別です。

内堀と石垣が残り、高さ約30メートルと日本有数の高さを誇る内堀の石垣も必見で、映画のロケ地としても利用されたようです。また、伊賀市の郷土資料を展示。現在の三層の天守は、昭和10年に建てられますが、木造の建物内は戦国時代の雰囲気そのまま残されています。伊賀文化産業城とも呼ばれ、市の指定文化財となっています。

天守の見学

日本100名城のひとつに選ばれている伊賀上野城の天守閣内は、随所に様々な展示品があります。最上階の天井には「横山大観氏」など著名人から寄贈された1m四方の色紙に目が奪われます。1階と2階は筒井氏や藤堂高虎にまつわる展示品が見れます。

結構な高さなの石垣の上に、天守閣はさらに30mの高石垣の上にあります。高石垣の高さは日本一のようで、当時の敵側攻め手も攻めあぐねる様子が想像されます。
3階は伊賀市を一望、元が高台にあるのに高石垣でさらに高さがあるため、伊賀市内の展望は穏やかな街並みと田畑、山並みなどが素晴らしいです。窓から見る構造で廻縁がないので外には出られません。

敵側を睨む高石垣

築城当時は、大阪城の豊臣氏も健在で、戦略上の重要性が意識して築城されたらしいようです。本丸西側の石垣は黒澤明監督の映画や、TVロケ地にもなる日本一の高さの石垣は見どころです。大阪城と競う約30mの高さを誇る高石垣には手すりや柵もないので、足元に気を付けて散策を楽しんでください。石垣の上から覗くと足がすくみそうですが、お堀と石垣のバランス景観も見事なものと思います。

石垣に沿って散策

伊賀上野城がある上野公園・園内の散策は四季折々の景観が楽しめます。俳聖殿や忍者屋敷など名所・旧跡も数多くあります。標高184mほどの丘にある梯郭式平山城には多少の高低差があるので本丸に着くまでゆっくりと石垣を眺めながら歩きたいと思います。

アクセス

伊賀鉄道の忍者列車に乗ってガタゴトと揺れながら上野市駅へ向かいます。上野市駅で下車、松尾芭蕉の銅像が上野市駅前広場に建っています。駅前からお城のある上野公園入口まで徒歩10分程が目安です。天守閣近辺までは若干の坂を上がりますが、舗装された道が続きますのでゆっくり歩きたいと思います。


家康も愕然、堅牢過ぎる篠山城跡

2023-08-15 10:22:04 | 日記

篠山城の縄張りは築城名手の藤堂高虎で豊臣氏を包囲する城の一つ。築城後には

大坂冬の陣や大坂夏の陣でも城主・松平康重が篠山城から大坂城攻撃に出陣し大活躍する。

家康狙い通りの役割を果たしますが、山陰道を睨む要衝の篠山城は堅牢過ぎると天守閣は

恐れて建てられず平山城となるも、今では日本遺産認定の日本百名城のひとつです。

 

二の丸御殿庭園と井戸

徳川家康の命により西国諸大名が動員されて築かれた篠山城大書院は、天守のない

篠山城の中核をなす建物でした。 築城工期は1年たらずの突貫工事でしたが、

笹山(篠山)は全体が岩盤で出来ており難工事だったようです。

 

篠山城大手口の鉄門

表門から二重桝形・中門を抜けると鉄門(kuroganemon)に、呼び名通り門扉に鉄板が

張られた、二の丸へ至る最後の門跡で関門にふさわしい厳重な造りです。現在は

模擬冠木門、往時は絵図によれば櫓門が設けられていたようです。普請総奉行の

池田輝政が中心に、縄張りには築城の名手の藤堂高虎が手掛け、石垣造営には

穴太衆が携わったようです。

 

二の丸屏風折の石垣と犬走の景観

見事な石垣と内堀、犬走りに囲まれた城跡、大書院が見えます。内堀と外堀および馬出、

二ノ丸内は石垣が残っています。外堀の周囲に3つ造られた馬出は東と南の2つが堀と

ともに現存しています。4月上旬は”さくらまつり"が催されて観光客で賑わい、

篠山城跡一帯が桜で彩どられます。

 

南門・埋門跡

段差を利用した埋門跡(uzumimon ato)、二の丸南側の門です。この付近の石垣には

城内で最も多くの符号・刻印が見られます。篠山城跡二の丸から南側にある埋門を

くぐり下ると、三の丸へ通り抜けます。二の丸南側の埋門から下り、三の丸を通って

五万石の城下町として栄えた河原町妻入商家群方面へ向かいます。

 

城下町・河原妻入商家群

河原町を歩くと間口の狭い奥行きの深い造りをした妻入りの商家が建ち並び、歴史深さが感じられます。

約600mにわたり、藩政時代の面影を残す家並みが続き、土産物屋もあって買い物をしながら、写真も

撮りながらの散策を楽しめると思います。

白い壁と面白い鬼瓦が特徴の瓦屋根の商家が五百メートル以上にわたって街道に立ち並んでいます。

大小の商家が街道の両側に立ち並び、商家の前の所々にはデカンショ節の唄が描かれた灯篭があるのも、

町の良いアクセントになっていると思いました。

 

アクセス...城跡近くの大正ロマン館

JR篠山口駅から神姫バスを利用、所要15分程で城北口停留所で降車します。バス停留所から

徒歩5分ほどでレトロな建物の大正ロマン館があって、お土産や軽食があります。大正ロマン館

からも見えますが、篠山城跡の大手口には二~三分で歩けます。

お洒落な観光案内所

大正ロマン館の道路を隔てて対面にあるのが、レトロ風でお洒落な建物の篠山観光案内所です。

先ずは情報入手、案内所に入って現地調査、時間に合わせて観光ルートを検討されたら良いと思います。

篠山城跡の城内マップや城下町マップも無料でもらえます。