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斎藤道三亡き後に岐阜城の城主になったモノは皆短命!道三の呪いか?

2023-06-17 16:55:30 | 趣味

息子の義龍は長良川の戦いで親父・道三を葬り、稲葉山城主になるが油断で家臣の竹中重治らに調略に騙され城を奪われます。城を返還されて信長侵攻を何度も撃退するが35歳で急死。後に稲葉山城は信長によって落城、嫡男龍興は流浪後に越前朝倉滅亡へつながる刀根坂の戦いで戦死して斉藤家は3代目で滅亡。信長は道三の娘の濃姫を妻に迎え城主となり岐阜城と改名、天下布武を発布する。しかし信長の時代も短く、明智光秀の謀反で世を去る....

山頂に見える岐阜城

標高329m金華山の山頂に建つ岐阜城には金華山ロープウェーを利用すれば楽チン。難攻不落の城と知られ『美濃を制すものは天下を制す』と伝わり、戦国時代を書いた司馬遼太郎作「国盗り物語」で稲葉山城は斎藤道三の居城でした。稲葉山城の戦いで撃破した信長は、「井の口」と呼ばれていた城下町を「岐阜」に、それに伴い稲葉山城は岐阜城と名前を変えます。

稲葉山城が築城されたのは鎌倉時代の1201年、鎌倉幕府の文官・二階堂行政(鎌倉幕府の十三人の合議制にも参加)によって築かれたとか....その後の戦国時代になり斎藤道三が稲葉山城を大改修し、城下町も多くの人々行き来するように繁栄させました。

城跡二の丸門跡辺り

天守台に建つ天守閣の南西一段下辺りに二の丸が築かれ、さらに一段下に二の丸門があります。周囲を石垣で高く積みあげて守備固めされています。 関ヶ原前哨戦となった慶長5年8月の岐阜城攻略戦では、この二の丸門辺りで激戦が繰り広げました。この時、門内にあった煙硝蔵に火がついて大爆発、この時の火災で美濃・尾張国内に岐阜城の落城が知られ広まったようです。

難攻不落の山城と知られる岐阜城には、階段や坂道の多い登山道は整備はされていますが山登りですので、観光者で運動靴で無ければ避けたいと思います。ロープウェーなら約3分、山頂駅から徒歩10分程で岐阜城の天守に着きます。天守辺りからの眺めは良く、眼下に広がる岐阜の町並みや、天気の良い日には遠く山々が見渡せまて気持ちが良いです。

城跡一の門辺り

歴史フアンが注目する一ノ門は城郭の入り口にあたる城門で、斎藤道三が築いたようです。道三の孫を撃破し、稲葉山城を奪取した信長公は独創的な城造りでリニューアルしますが、一ノ門は義父でもある道三からの継承を想い残したようです。 城郭の防御で最も重要な城門、義父への想いあって?? 道三からの遺城門を受継いだと思われます。

大手道旧三の丸付近に復元された冠木門は、「天下」を好んだ信長公にちなんで「天下第一の門」と名付けられ、この先を少し歩けば上格子門跡があります。稲葉山城を攻め落とした織田信長公は尾張国から美濃国に移り住み、稲葉山の城郭を再建し、楽市楽座の継続を認めるなど美濃国の繁栄を図ります。天下統一への野心「天下布武」の朱印を用い、岐阜城は天下統一へ踏み出す城となりました。

岐阜城の石垣

城跡遺物からは軒丸瓦や軒平瓦などが見つかり、軒丸瓦は文様の特徴が信長の家臣団の城である光秀・坂本城や 藤孝・勝龍寺城などでも見つかった軒丸瓦と類似していることから、同時期に造られたものと推測、天守台石垣が信長公時期に築かれた可能性もあるようです。

近世城郭の出発点と伝わる信長公が岐阜城の後に築城した安土城ですが、岐阜城跡には石垣のほか巨石列を用いるなど、その構築技術に近世の先駆けとも云える築城技術の要素が窺えます。岐阜城跡は日本の中世時代から近世への転換期にあたる日本史上の重要な城と言われています。

戦国時代の石垣

発掘調査では岐阜城の天守台の南西角に、縦80㎝ほど横70㎝ほどの大きさの石が2つ、新たに見つかりました。石材の詰め方などから信長公が岐阜城に入城した1567年?直後に使われたと推察されています。

天守周辺の発掘調査では、天守台の2段目の石垣が確認されています。天守台の石垣が2段で構築されていることが判明され、また2段目の石垣の裏込め11段目に石垣の基礎が兼ねており、1段目と2段目の石垣が同時に築かれた可能性が高いと推察されています。

天守から見下ろす長良川

天守の最上階は展望フロアで、回り縁になっている天守に吹きぬける風を心地よく感じます。「美濃を制する者は天下を制する」の言葉があるように、金華山の山頂から街並みを見下ろすと全てを手に入れたかのようで、織田信長公も街並みをそのように見渡していたのでしょうか。

眼下には鵜飼で有名な長良川が市内を貫流し、天気が良いと東には恵那山と木曽御岳山が見渡せます。北には乗鞍、日本アルプスが、また西には伊吹、養老、鈴鹿の山系の連なりが見える展望です。日本百名城の天守展望に相応しいに景観が楽しめます。

天守に坐す織田信長公

信長公は奇襲や鉄砲を利用した戦略・戦術をはじめ、柔軟な発想や破天荒な振る舞いで多くの逸話を残します。人々を魅了し震撼させて、50年足らずの生涯を駆け抜けた戦国時代の風雲児・織田信長公が好んだ舞曲 幸若舞のひとつの敦盛がドラマにも取上げられて有名です。小国・尾張の大名から、天下統一目前にまで駆け上がりますがドラマチックに終了します。

本能寺の変に倒れた織田信長公の追善菩提に秀吉が建立した大徳寺総見院、本堂の木造織田信長公坐像と岐阜城の木造織田信長坐像のお顔が似ており、容姿は実物にかなり忠実だと推測されます。信長公の一周忌法要のために制作されたようです。

歩いて登る?

金華山には登山口が5ヶ所あり、お好みのルートから山頂まで登ることができます。どのコースも所要時間は健脚な大人の足で60分程度です。市内バスとロープウェイのセットチケットが割安かも、片道をロープウェーを利用して残りは登山道で歩くパターンも可能です。涼しい時期の天気の良い日は、ハイキング登山も選択肢と思います。

発掘調査や整備計画もあるようですが、歩いて登れば所々で表面に出ている山上エリアの史跡・石垣跡などのお宝が見れるチャンスが有るかもと感じました。

信長公と濃姫の居館

金華山麓に築かれた信長公居館跡には文様に金箔を施した瓦の破片と庭園跡が見つかっています。宣教師ルイス・フロイスの著書「日本史」にも居館庭園を見た後に金箔で飾られた濃姫の部屋を訪れたと記述されているようです。信長公が濃姫のために建てた金箔の御殿と推測されています。

居館跡には金箔瓦の破片は30個程見つかり、金箔御殿が建つ庭園には約36㎡程の池もあったようです。造成時期が異なる石垣があることから、当初の施工計画も変更し、濃姫に気に入ってもらえるようか、濃姫のおねだりかは分かりませんが、改修して彩り美しくされたのではと推測されています。

アクセス

岐阜城跡にはJR岐阜駅・名鉄岐阜駅前からの市内バスを利用します。JR岐阜駅からは北口に出てバス乗り場ロータリーに、チケット売り場もあります。お得なバスとロープウェイのセットチケットもチケット売り場で販売されてます。乗車からの所要は15分程で、バス降車は岐阜公園歴史博物館前です。観光者の方はJR構内に 情報収集の岐阜市観光案内所が有り、岐阜城・市内観光等の資料パンプも用意されていますのでご利用ください。


鳥取県境港、実は優しい妖怪の町でした!

2023-04-07 11:37:34 | 旅行

ぶらりと温泉目当てに出た山陰の旅先で途中下車した境港駅、境港は妖怪の棲む町です。海沿いに広がる静かな温泉郷のある米子駅から境港へはJR境線の鬼太郎列車に乗り約45分、境港駅を降りると...何と恐ろしい妖怪がいたるところで出くわす妖怪ロードに導かれます。そう、ここは妖怪げげげの鬼太郎の生みの親、水木しげる先生の故郷なのです。

ゲゲゲの鬼太郎と目玉おやじ

JR境港駅から水木しげる記念館までの約800m続く妖怪の道が水木しげるロードです。道路沿いの所々に妖怪が177匹が待受けて、恐れを知らずに来る人を冷ややかに見つめています。最近は夜暗くなる妖怪ロードに、妖怪たちの影絵の照明が投射されたり 妖怪のライトアップがもあって妖怪たちの気配もパワーアップ、男の僕は金〇〇もチジミ上がります。

妖怪小豆洗いはロード沿いの橋に

コマ目洗い(あずきあらい)は、川でショキショキッ♪とリズミカルな音をたてながら小豆を洗う妖怪です。小豆を洗おうか、人を喰ったろうかぁなどと歌いながら音と歌声で川へと誘い、落とされてしまうこともあるそうですが、川傍で小豆の洗う音や歌声は聞こえるがその姿を見たものはおらないようで、滅多に見れる妖怪では無いのですが巷説百物語にも登場する人気の妖怪です。

ロード沿いには妖怪神社

妖怪ロードを歩き河童の泉を通り過ぎると、水木しげる先生がご神体に入魂した「妖怪神社」があります。周辺にあるのは、神仏・吉凶を司る妖怪どもや森にすむ妖怪ども(ブロンズ像)がお見えになります。妖怪の町を安全に楽しまれるのであれば、ぜひ参拝して無事に観光が終えれますようにと、パンパンと祈願しましょう。

河童の泉で水遊びする妖怪

水木しげるロード途中の妖怪広場にあるのが「河童の泉」。9体の妖怪たちが寛ぐ妖怪どものオアシスになっています、小便小僧になった鬼太郎もいますよ。泉の周りに高さ3メートルの塔や切り株や小屋があり、9体の妖怪どもが思い思いにくつろいでいる、暑い日はたまに人間の子供達も水遊びを楽しんでいる妖怪オアシスです。

境港駅前で筆談中の水木先生

JR境港駅前には、鬼太郎や目玉おやじ、ねずみ男が見守る「水木しげる先生執筆中」のブロンズ像境港駅から出てすぐのところに、漫画を執筆中の水木先生と、それを見守る鬼太郎とねずみ男。水木さんの表情を見る限り、かなりテンパってるので、鬼太郎達に、作品のダメ出しなんかされているんだと思います。「ハゲたら困るので、毛針の使用はほどほどに」とか「ネコ娘なんか活躍させないで、俺を使ってくれ」と駄々っ子のように言ってるようです。

境港駅は隠岐の島行き船乗り場最寄り駅

境港駅は、鳥取県境港市大正町のJR西日本・境線の海岸に面した駅です。当然に駅を走る列車は妖怪列車です。町に棲む妖怪どもは通勤・通学で鬼太郎列車を利用して通っており、妖怪列車に乗車する場合は妖怪どもと相乗りなので十分に注意が必要です。妖怪が隣に座ったら...危うき近寄らず離れることです、お菓子など与えたら駄目です。

弓ヶ浜海岸から見える伯耆大山

海岸線にある温泉郷の皆生温泉から最寄りの砂浜を散策、海辺から見える伯耆大山は733年に出来たと伝わる「出雲風土記」に国引き神話の火神岳(ほのがみのたけ)の名で登場します。「神坐す山」に生まれた「地蔵信仰」もあって、古代書物に残る日本最古の神山で神話の世界が隣町の境港を鎮守するかのように隣接しています。


極楽橋から京大阪道を下り龍王峡遊歩道へ!

2022-09-02 16:25:03 | 日記

西高野街道は「与津の辻」で中高野と交わり河内長野へ、また東高野街道が河内長野「辻本の辻」で合流します。一つになった高野街道は紀見峠を越え和歌山へ、高野山真言宗 総本山金剛峯寺に向かいます。真言密教の開祖空海信仰に始まった霊場高野山へ向かう参詣は、平安末から鎌倉初期に公家が始めて開かれた参詣道です。後に高野聖の納骨や江戸時代には、一般庶民にも広まった巡礼の街道です。不動口女人堂へ一里石を求め当時の痕跡残る京大阪道と、千国橋から街道を離れてトロッコ道へ向かい九度山へ、丹生川沿い龍王峡遊歩道を歩きました。

 

高野山女人堂に向かう不動坂

女人禁制時代の高野山に女性は入れないため、女人堂は巡礼女性が一晩中堂にこもり真言唱える場所でした。女人解禁後、最初に高野山永住した女性の萱野さんも苦労をされたとか、寺側とのバトル伝説もあるようです。高野山女人堂結ぶ七つ有った参詣道も、現在は女人道高野七口が唯一残る女人堂、導かれる登り口は石畳道の続く不動坂です。

京大阪道を登り切ると不動口女人堂に、霊場高野山です。南海高野線ケーブル横目に登る不動坂道中に断崖絶壁で昔の刑場だった「萬丈が嶽標柱」があり、仏の世界にも刑罰場があるのだと痛感しますね

不動川にかかる朱色の極楽橋

標高538m極楽橋駅を降りて川沿いを少し歩くと朱色の極楽橋に、由来は擬宝珠が付く朱塗りの橋を葬列で渡ったことから、死者の極楽往生を願って付けられたようです。それ以前は不動橋でした。霊場高野山の聖域と俗世を区切る結界とされ、極楽橋がはじまりの聖地。不動口女人堂に向かわず極楽橋から京大阪道を、九度山向かって神谷集落へ下ります。

川沿いに神谷集落への標識

霊場高野山に一番近い神谷集落は、大正・昭和にかけて高野山巡礼として利用された街道「長坂街道」と京大阪街道の合流地域です。小さな集落ですが、当時は宿場町として巡礼者が利用する旅館や店屋、長屋、髪結屋があって参詣客で賑わい繁盛したと云われます。

神谷集落は昭和初期まで霊場高野山詣に来る巡礼者が立ち寄れる最後の宿場町でした。巡礼客で栄え賑わった神谷集落は、一時約200人もの人が生活していたようです。現在は電車・ケーブルと車で高野山に向かう人がほとんどとなり、街道を利用して高野山まで歩く人も少なく、過疎化して秘境集落となっています。

 

神谷集落の町立 旧白藤小学校

木造建物の高野町立 旧白藤小学校は、以前に宿場町で賑わった神谷集落も過疎化のため休校となっております。多い時には生徒が100人ほど通っていたようですが、今は町のシンボルとして維持管理される旧白藤小学校は「カフェしらふじ」で営業、ドリップコーヒーの楽しめる古民家風カフェとして高野街道を歩く人の憩いの場所になっています。例年11月頃に開催予定の「ジャパンコーヒーフェスティバルin紀伊神谷駅」は、コーヒーと高野山麓の魅力をPRされてるようです。また、「ジャパンコーヒーフェスティバルin高野山とふもと」は南海高野線橋本駅から高野山駅までの間にある8駅を電車を乗り降りしコーヒーを味わって、山裾に広がる風景が楽しめるイベントも催されているようです。

 

神谷集落に立つ案内標識

神谷辻に新高野街道「長坂街道」と高野山・九度山への案内標識が高野街道沿いに立ってます。険しい山間部の街道に歩き疲れて場合は最寄り駅、標高473m「紀伊神谷駅」から帰るエスケープコースも有りますが、駅は利用客が少なく売店はありません。昭和3年に南海高野線の終着駅「神谷駅」で開業され現在に至りますが、秘境「紀伊神谷駅」として人気があるようです。

 

高野街道 里程標の一里石

一里石里程標は由緒あるお地蔵さま「縁結び地蔵」のお堂前に、むすびの地蔵堂は京大坂道清水村から6つの辻に作られた最後の木造地蔵祀られているようです。弘法大師が造られたと伝えられる石像と室町時代に彫られたお地蔵さんが祀られるお社が神谷にはあるようです。神谷集落にとっての守り神であるお地蔵さまは、集落の10月の特別なお祭りの時に一日のみ扉が開かれてご開帳されるようです。

 

高野の仇討ち場所 作水峠の黒岩

髙野山街道の仇討ちは、MUの遺児がN一味に復讐した死闘でした。仇討は明治4年2月30日、前日に九度山町河根の中屋旅館でMU兄弟一行は仇討の相談し先回りする。作水峠の黒石で仇のN一味を待ち伏せて仇を討ちました。仇討ちの原因は文久2年師走の夜に、播州赤穂藩の執政MO主税と参政MUが自称勤王派の足軽のNらの一味13人に暗殺されたことでした。仇討ちを果たしたMU兄弟は死罪で刑務所行きでしたが、後に務めを果たして無事出所されたようです。

 

龍王峡遊歩道から朱色の丹生川橋梁

長い下り坂の作水坂をおりて丹生川にかかる標高129m千国橋まで下ってくると一安心。町石道の表参道と比べ裏参道とも呼ばれる学文路から高野山へ登る高野街道を離れて、学文路には向かわず千国橋から真田幸村で有名な九度山へ向かいました。千国橋から標高94m南海高野線「九度山駅」までは急坂もなく、朱色に染まる高野線・丹生川橋梁と景観を眺めながら丹生川に沿って龍王峡遊歩道の散策を楽しみました。このコースは距離があり下り坂が続くので膝に負担がかかり侮れないと感じました、膝や腰を痛めている人はご注意です。

 


名泉湯原のハンザキ伝説を追う!

2020-04-01 09:36:00 | 気ままな人生
ぶらりと出た旅先で時々、おもしろい里伝説に出会います。JR中国勝山駅から路線バスで約30分ほどの山間の川沿いにある温泉郷は、そこで恐ろしくモノ悲しいハンザキ伝説がありました。山裾に広がる静かな温泉郷は浴衣姿で歩くカップルが似合う温泉街ですが、その昔には川沿いを歩く村人や馬・牛を飲みこみ食ってしまう恐ろしいバケモノが棲む伝説が残る山里でした。

■温泉郷に伝わるハンザキ伝説


・昔々文禄時代、村の龍頭ヶ淵に大きさ10mの胴周り5mもある巨大ハンザキが主として棲みついていました。近くを通る人や馬を長い尾っぽで捲き込んでは呑込み食ってしまいました。村人は恐れ慄いて暮らしていましたが、村に住む若者の三井彦四郎が村人のためにこのバケモノを退治しようと決意。短刀を口にくわえて淵に飛込み、しばらくして淵の水が真っ赤に染まり、巨大ハンザキが浮かんできました。

■祟り恐れてハンザキ祀る


・毎年8月8日に温泉郷で開催されるハンザキ祭りは、殺された巨大なハンザキを祀る村に伝わる祭りです。ねぶたになって祀られるハンザキが主役となって、数匹の巨大ハンザキが温泉街をのたうち回るねぶた祭りです。


■ハンザキと楽しむ川原の足湯


・温泉郷マップは旭川沿いに約2000mほどのメイン通り湯原温泉街で、ゆっくり歩いても30分ほどの遊歩道が案内されています。旅館街過ぎると川沿い散策路にマス釣りで竿持つ人も見受けられ、四季折々に天然マス釣りも楽しめそうです。


■ハンザキが棲む温泉郷


・旅館・ホテルが数件連なる湯原温泉街のメイン通りは、旭川に沿ってのんびり歩ける遊歩道でレトロ風の静かな温泉郷です。温泉街の散策路沿いには観光情報を教えてもらえる温泉ミュージアムや、カップルで仲良く参拝できる趣きがある温泉薬師堂が有って楽しめます。


■湯原温泉郷のメイン通り


・湯原ダム下流の旭川沿いに広がる自然タップリの温泉街は、良質なアルカリ性で泉質が肌ざわりがなめらかな人気の温泉郷です。人気スポットの「砂湯」は川底から湧き出る温泉で、全国の露天風呂番付「西の横綱」と評判の人気混浴風呂です。


■ハンザキ生息スポット


・湯原ダム下流の旭川沿いに広がる自然タップリの温泉街は、良質なアルカリ性で泉質が肌ざわりがなめらかな人気の温泉郷です。人気スポットの「砂湯」は川底から湧き出る温泉で、全国の露天風呂番付「西の横綱」と評判の人気混浴風呂です。


■ハンザキ大明神祀られる祠


・巨大ハンザキを退治した三井彦四郎は、旧湯本小学校の側に祀られたお墓で眠っています。巨大ハンザキの怨念を恐れた村人は、ハンザキ大明神の祠を創建し祀り祟りは鎮まったようです。


■ハンザキへのアクセス


・ハンザキ棲む温泉郷のアクセスは、中鉄美作バス(蒜山・久世ルート)を利用します。最寄り駅の「JR中国勝山駅」で下車し、駅前にある中国勝山バス停留所から所要30分ほどの「湯原温泉バス停留場」で降車します。JR中国勝山駅にはソバ屋の横に観光案内が隣接して、昼食と観光情報も聞けるので便利です。







奥河内に残る鬼伝説を追う!

2020-04-01 09:17:00 | 気ままな人生
ぶらりと出た旅先で時々、おもしろい里伝説に出会います。和歌山・奈良県境で大阪奥河内の山裾に南北朝時代の所縁ある天野金剛寺があります。河内長野は当時の天皇・上皇の行宮地あった地域で重要文化財も多い観光名所で、高野山に向かう巡礼の高野街道など中世ロマンの妄想散策が楽しめます。後村上天皇・楠木正成の所縁ある観心寺近くの神ガ丘地域は、古刹延命寺がひっそり佇む鬼住村に鬼夫婦の伝説が残ります。

■鬼住村の鬼伝説


・鬼伝説は長野公園の5エリア内一つ、奥河内の神ガ丘にある延命寺地区に伝わります。楠木正成で有名な観心寺の古文書にも残される鬼住村伝説の時代背景は鎌倉時代末期ごろと思われます。泉州血濡(チヌ)山に大きな男鬼と河洲鬼住村の女鬼が村人に悪さをするため、村人が領主に頼み鬼退治の募集しました。勇気のある若者が挑み、達者な弓矢を使って果敢に戦って鬼退治を果たしました。

■鬼夫婦の遊び場だった鬼住橋


・薬樹山 延命寺に向かう参拝道は、昔々鬼夫婦の棲む石見川が沿った山里路でした。近年に地名の鬼のイメージを嫌って鬼から神に変えられて神ガ丘になりました。

■鬼夫婦戯れていた鬼のたらい


・石見川の清流には鬼のたらい(盥)場が有って、たらいの由縁が不詳ですが鬼夫婦が戯れていたそうです。川沿いには鬼の洞穴跡や炭酸ガスが湧く川底があり、時々炭酸ガスの泡がボコッボコと浮きます。

■鬼伝説が残る延命寺


・弘法大師ゆかりの古刹は紅葉名所としても有名で、伝説の鬼退治で村人が使った桃の木で作られた弓が寺宝に保存されています。鬼退治の褒美に上田の姓を賜った村人の子孫一人は後に、高僧・浄厳和尚となり延命寺の中興の祖として名前が残ります。

■魔除けみたいな鬼封じの鳥居


・境内の参拝道沿いには様々な表情の石仏が並び参拝者を出迎えて見守ります。参道沿いに一際美しい樹齢1000年とも言われる幹回り5mもあって、根元で幹が2つに分かれる「夕照の楓」は近年枝枯れ目立ち元気がありません。

■鬼伝説へのアクセス



・最寄り駅は南海高野線三日市駅で、駅から徒歩で鬼住橋に向かいます。約40分ほどの田園風景が楽しめる散策路は、住宅地を抜けると普段は人の少ない静かな石見川沿いに着きます。たまに観光者や延命寺の参拝者と出会うこともありますが、日暮れは薄暗くひっそりと不気味です。