息子の義龍は長良川の戦いで親父・道三を葬り、稲葉山城主になるが油断で家臣の竹中重治らに調略に騙され城を奪われます。城を返還されて信長侵攻を何度も撃退するが35歳で急死。後に稲葉山城は信長によって落城、嫡男龍興は流浪後に越前朝倉滅亡へつながる刀根坂の戦いで戦死して斉藤家は3代目で滅亡。信長は道三の娘の濃姫を妻に迎え城主となり岐阜城と改名、天下布武を発布する。しかし信長の時代も短く、明智光秀の謀反で世を去る....
山頂に見える岐阜城
標高329m金華山の山頂に建つ岐阜城には金華山ロープウェーを利用すれば楽チン。難攻不落の城と知られ『美濃を制すものは天下を制す』と伝わり、戦国時代を書いた司馬遼太郎作「国盗り物語」で稲葉山城は斎藤道三の居城でした。稲葉山城の戦いで撃破した信長は、「井の口」と呼ばれていた城下町を「岐阜」に、それに伴い稲葉山城は岐阜城と名前を変えます。
稲葉山城が築城されたのは鎌倉時代の1201年、鎌倉幕府の文官・二階堂行政(鎌倉幕府の十三人の合議制にも参加)によって築かれたとか....その後の戦国時代になり斎藤道三が稲葉山城を大改修し、城下町も多くの人々行き来するように繁栄させました。
城跡二の丸門跡辺り
天守台に建つ天守閣の南西一段下辺りに二の丸が築かれ、さらに一段下に二の丸門があります。周囲を石垣で高く積みあげて守備固めされています。 関ヶ原前哨戦となった慶長5年8月の岐阜城攻略戦では、この二の丸門辺りで激戦が繰り広げました。この時、門内にあった煙硝蔵に火がついて大爆発、この時の火災で美濃・尾張国内に岐阜城の落城が知られ広まったようです。
難攻不落の山城と知られる岐阜城には、階段や坂道の多い登山道は整備はされていますが山登りですので、観光者で運動靴で無ければ避けたいと思います。ロープウェーなら約3分、山頂駅から徒歩10分程で岐阜城の天守に着きます。天守辺りからの眺めは良く、眼下に広がる岐阜の町並みや、天気の良い日には遠く山々が見渡せまて気持ちが良いです。
城跡一の門辺り
歴史フアンが注目する一ノ門は城郭の入り口にあたる城門で、斎藤道三が築いたようです。道三の孫を撃破し、稲葉山城を奪取した信長公は独創的な城造りでリニューアルしますが、一ノ門は義父でもある道三からの継承を想い残したようです。 城郭の防御で最も重要な城門、義父への想いあって?? 道三からの遺城門を受継いだと思われます。
大手道旧三の丸付近に復元された冠木門は、「天下」を好んだ信長公にちなんで「天下第一の門」と名付けられ、この先を少し歩けば上格子門跡があります。稲葉山城を攻め落とした織田信長公は尾張国から美濃国に移り住み、稲葉山の城郭を再建し、楽市楽座の継続を認めるなど美濃国の繁栄を図ります。天下統一への野心「天下布武」の朱印を用い、岐阜城は天下統一へ踏み出す城となりました。
岐阜城の石垣
城跡遺物からは軒丸瓦や軒平瓦などが見つかり、軒丸瓦は文様の特徴が信長の家臣団の城である光秀・坂本城や 藤孝・勝龍寺城などでも見つかった軒丸瓦と類似していることから、同時期に造られたものと推測、天守台石垣が信長公時期に築かれた可能性もあるようです。
近世城郭の出発点と伝わる信長公が岐阜城の後に築城した安土城ですが、岐阜城跡には石垣のほか巨石列を用いるなど、その構築技術に近世の先駆けとも云える築城技術の要素が窺えます。岐阜城跡は日本の中世時代から近世への転換期にあたる日本史上の重要な城と言われています。
戦国時代の石垣
発掘調査では岐阜城の天守台の南西角に、縦80㎝ほど横70㎝ほどの大きさの石が2つ、新たに見つかりました。石材の詰め方などから信長公が岐阜城に入城した1567年?直後に使われたと推察されています。
天守周辺の発掘調査では、天守台の2段目の石垣が確認されています。天守台の石垣が2段で構築されていることが判明され、また2段目の石垣の裏込め11段目に石垣の基礎が兼ねており、1段目と2段目の石垣が同時に築かれた可能性が高いと推察されています。
天守から見下ろす長良川
天守の最上階は展望フロアで、回り縁になっている天守に吹きぬける風を心地よく感じます。「美濃を制する者は天下を制する」の言葉があるように、金華山の山頂から街並みを見下ろすと全てを手に入れたかのようで、織田信長公も街並みをそのように見渡していたのでしょうか。
眼下には鵜飼で有名な長良川が市内を貫流し、天気が良いと東には恵那山と木曽御岳山が見渡せます。北には乗鞍、日本アルプスが、また西には伊吹、養老、鈴鹿の山系の連なりが見える展望です。日本百名城の天守展望に相応しいに景観が楽しめます。
天守に坐す織田信長公
信長公は奇襲や鉄砲を利用した戦略・戦術をはじめ、柔軟な発想や破天荒な振る舞いで多くの逸話を残します。人々を魅了し震撼させて、50年足らずの生涯を駆け抜けた戦国時代の風雲児・織田信長公が好んだ舞曲 幸若舞のひとつの敦盛がドラマにも取上げられて有名です。小国・尾張の大名から、天下統一目前にまで駆け上がりますがドラマチックに終了します。
本能寺の変に倒れた織田信長公の追善菩提に秀吉が建立した大徳寺総見院、本堂の木造織田信長公坐像と岐阜城の木造織田信長坐像のお顔が似ており、容姿は実物にかなり忠実だと推測されます。信長公の一周忌法要のために制作されたようです。
歩いて登る?
金華山には登山口が5ヶ所あり、お好みのルートから山頂まで登ることができます。どのコースも所要時間は健脚な大人の足で60分程度です。市内バスとロープウェイのセットチケットが割安かも、片道をロープウェーを利用して残りは登山道で歩くパターンも可能です。涼しい時期の天気の良い日は、ハイキング登山も選択肢と思います。
発掘調査や整備計画もあるようですが、歩いて登れば所々で表面に出ている山上エリアの史跡・石垣跡などのお宝が見れるチャンスが有るかもと感じました。
信長公と濃姫の居館
金華山麓に築かれた信長公居館跡には文様に金箔を施した瓦の破片と庭園跡が見つかっています。宣教師ルイス・フロイスの著書「日本史」にも居館庭園を見た後に金箔で飾られた濃姫の部屋を訪れたと記述されているようです。信長公が濃姫のために建てた金箔の御殿と推測されています。
居館跡には金箔瓦の破片は30個程見つかり、金箔御殿が建つ庭園には約36㎡程の池もあったようです。造成時期が異なる石垣があることから、当初の施工計画も変更し、濃姫に気に入ってもらえるようか、濃姫のおねだりかは分かりませんが、改修して彩り美しくされたのではと推測されています。
アクセス
岐阜城跡にはJR岐阜駅・名鉄岐阜駅前からの市内バスを利用します。JR岐阜駅からは北口に出てバス乗り場ロータリーに、チケット売り場もあります。お得なバスとロープウェイのセットチケットもチケット売り場で販売されてます。乗車からの所要は15分程で、バス降車は岐阜公園歴史博物館前です。観光者の方はJR構内に 情報収集の岐阜市観光案内所が有り、岐阜城・市内観光等の資料パンプも用意されていますのでご利用ください。
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