マリア様の誕生日(9月8日)にむけての9日間のお祈り(ノヴェナ)も、
残すところ、わずかになりました。早いものですね・・・
今日はマリア様にちなんで、お告げの祈りについて、思い出してみたいと思います。
お告げの祈りで、私が最初に思い出すのは、四ツ谷にある、聖イグナチオ教会です。
朝昼晩に街に鳴り響く鐘の音と、それとともに始められるミサ・・・
必ず、お告げの祈りを皆で唱えてからミサが始まるというこの教会の習慣が、
とても美しいのです。
■□お告げの祈り■□ (現在では口語の祈りが唱えられています)
(朝、昼、晩、ひざまずいて唱える。ただし、日曜はその前晩から立って唱える。)
主の御使いの告げありければ、マリアは聖霊によりて懐胎し給えり。
(天使祝詞1回)
われは主のつかいめなり。仰せの如くわれになれかし。
(天使祝詞1回)
しかして御言葉は人となり給い、われらのうちに住み給えり。
(天使祝詞1回)
天主の聖母われらのために祈り給え、キリストの御約束にわれらを適わしめ給え。
(祈願) 主よ、われら天使の告げを以て、御子キリストの御託身を知りたれば、
願わくはその御苦難と十字架と によりて、ついに御復活の栄えに達するを得んため、
われらの心に聖寵を注ぎ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。アー メン。
神さまはマリア様を通して、おんひとり子を世に遣わし、救いの計画を実現された、
そのことを思い起こし、感謝し、私たちが目指すべき方向、キリストの復活にあずかる
という目標をあらたにし、実現できるように助けを願う祈りです。
単純素朴なうちにも、キリスト者として生きるうえで大事なことが全部詰まっているので、
毎日3度祈るにふさわしい祈りだと思います。
昔、とある活動修道会の晩の祈りに参加したとき、お告げの祈りにも
あずかったことがあります。
その会では、交唱ごとに天使祝詞を唱えず、交唱の部分3つをまとめて唱えてから、
天使祝詞を1回だけ唱えていました。
3度唱える天使祝詞は、それぞれの交唱句を黙想するためにあてられているはずであり、
同じ祈りだからまとめて1回で・・・、というのは意味がわかりませんでした。
もしかすると、使徒職が忙しくて、共同の祈りの時間をあまり避けないのかもしれません。
たぶん私の知らない部分で、別のところで何か、その修道会で大事にされているものが
あるのかもしれません。
神様は、いろいろな手段・いろいろな方法で、人を招くことがおできになります。
この出来事を通して、神様は、最も基本的で単純な祈りを大事にする道に、
私を招いてくださったのだと感じ、感謝したことを、思い出しました・・・
何しろ、ノヴェナをしてきた今まで、この祈りのことをすっかり忘れ、
一度も唱えていなかった私なのです・・・orz
でも、私は、たどたどしいノヴェナを続けながら、
それは、私自身が、マリア様を、神様を、少しずつ思い出そうとする歩みであると思うのです。
神を思い出すために、神と生きる時間を少しでも取り戻すために、
こうして、基本的なお祈りの一つずつを思い出すことから、ゆるゆると取り掛かるしか
ないのかな、と思います。
ミレーの「晩鐘」という有名な絵は、私も幼い頃から親しんでいましたが、
あの光景の本当の意味を知っている日本人は、そう多くないのではないでしょうか?
あれは、お告げの祈りをしている姿なのだと気がついたのも、この祈りを知ってからでした。
田園に響きわたる、教会の鐘の音・・・・
それに合わせて、農夫たちが一斉に作業の手を休め、手を合わせて共に祈る。
なんと美しい光景だろうかと思います。
それは、神の現存への、招きの瞬間でもあります。
神さまは、いつでも、私たちのうちにおられるけれども、
四六時中、それを意識できるわけではありません。
日に3度、教会の鐘が鳴ったら、お告げの祈りをとなえて、、
キリスト者としての本分を思い起こす。
神様が私たちのうちにおられることに心を向け、しばし神と共に過ごす。
そういう、小さな習慣の積み重ねが、私たちを変えていくのだと思います。
聖母よ、この美しい単純な祈りが、わたしの日常にも組み込まれていきますように、
あなたと出逢う機会を、少しずつ、増やしていくことができますように。