カタツムリの歩み

社会復帰と教会復帰を模索する、引きこもりな猫族のつぶやき

ゆるすことが、私を自由にする

2012-09-19 18:43:15 | 日記

自分の思念によって、自分の言動がどれだけ支配されるかを思うとき、・・・

よい思いつきをさせてくださることが、大きな恩恵であることがわかります。

 

ご復活のラウレンシオ修士とともに、私のすべての行いをマリア様にゆだね、

マリア様に手伝っていただくようにしています。

生来、片付けがとても下手であるのに、意欲低下のため、長い間、身の回りのものは

ほとんど手つかず状態、放置状態のまま数年を過ごしてきました。

今、ようやくその問題に対処することができるようになって、少しずつ、取り組んでいます。

 

長時間のやる気は維持できないので、ほんの少しいじったら、またのんびりするという

繰り返しです。

よその人が私の部屋を見たら、「いったいどこを片付けたの?朝からちっとも片付いてないんじゃ?」と、あきれるでしょう。

本当に、あたりをかき回しているだけで、何もしてないも同然かな?・・・

でも、取るに足りない小さな部分で、やっただけのことは出てきています。

いつか探していたあれやこれやが、見つかったり、、古紙を少しだけ束ねることができたり・・・。

少し前まで、現実逃避の恐怖心で開封することさえできなかった書類も、

ほぼ抵抗なく開けることができるようになりました。

現実と向き合うということが、少しずつ、できるようになってきたのかな、と思います。

 

自分の姿を、私自身は嫌悪しているけれども、

神さまはずっと昔から、私が知っている以上に私のありのままをご存知であり、

最初からこんな私を受けとめてくださっているのです。

そこだけが、私のより頼みとする所です。どうかこのことを、忘れずにいられますように。

 

神さまの目を意識するようになって、気がついた、いくつかのこと、、、

神さまの助けを借りないときの、本性のままの私は、とても悲観的で、

人に不信感をもちやすく、何かにつけ悪く考えがちであること。

些細なことで怒りやすいこと。毒を含んだ言葉を吐くこと。

そのため、会話する相手の気を害しやすいということ。

 

愛とゆるしが大きなテーマであるキリスト教を信じているはずの自分なのに、

むしろ宗教とは無縁の友人たちから、「確証もないのに仲間を悪く言うのはやめよう」

「怒りが抑えきれないなら、無理に話しかけるよりも黙っていよう」と、

たびたび諭されたのです。 本当に恥ずかしく思います。

 

そして、、少しずつ祈りが織り込まれる生活を始めてからは、

ゲームをしていても、ゆるしがたく感じているときの自分を意識したり、

皆から嫌われている人と一緒に行動しなければならなくなったときにそれを甘受したり、

イヤな相手に一歩譲って少しねぎらいの言葉をかけたり、、、

ときどきですが、できるようになったかなと思います。

 

ゆるすというのは、難しいことです。

はらわたが煮えくり返るような思いになることもあります。

でも、難しいけれども、この問題をスルーしないことが大切だと思いました。

 

ゆるす行為は、神さまの助けなしにはできないことなので、

まず、簡単にゆるせない自分を認めて、神さまにお詫びするところから始めようと思います。

私がどれだけ無条件にゆるされてきたか、また、周囲の人にも、今までも、これからも、

どれだけゆるしてもらわなくてはならないことか、、、

そのくせ、人をゆるすのは大変難しいのです。

 

でも、ゆるせるようになりたい、ゆるせるように変えてくださいと、祈ることから始めましょう。

最初は、「自分のために」誰かをゆるすという方法でもいいのかなと思います。

ゆるさずにいれば、それは結局、自分の心を苦しみの牢獄に閉じ込めることになる。

これは、林檎が木から落ちるのと同じくらいに、確かな法則であるからです。

 

先日久しぶりにロザリオをしたとき、思い浮かんだ人のなかには、

職場でトラブルがあり、強い憎悪を持っていた人もいました。

たまたま通りがかりの人の姿が、その人に似ていたために思い出しただけなのですが、

ああ、私はこの人のことを、まだゆるせない、と感じました。

 

でも、うっかり思い出してしまったので・・・・、マリアさまごめんなさい、

私の過去には、まだたくさんのゆるせない人がいました、、、、

ゆるせずにいる自分を認め、お詫びします。

こんな私を変えてください・・・・

そうお祈りしました。

 

対処の難しい過去を思い出したときは、フタをしてしまうのでなく、、、

その現状をそのままマリア様にお見せして、

こんな部分では、私は、まだ生傷のままになっているのです、

ゆるせずにいる私を、哀れんでください、とへりくだることがいいのではないでしょうか。

 

こんなにも難しいことなのに、イエスは主の祈りのなかに「ゆるし」を盛り込んで、

神にゆるしを乞うとともに、人をゆるす決意を日々更新するようにと、私たちに望まれました。

そして私たちが「これだけは絶対にゆるすことができない」と決して言うことがないように、

極限のなかでの、最高のゆるしの模範を、お残しくださいました。

ゆるしというテーマが、神にとってどれだけ重要であるか、

私たちに、どれだけ「ゆるし」を大切に受け取ってほしいか、ということだと思います。

 

キリストの教えを、おぼろげに思い出し始めたに過ぎない私ですが、

人をゆるすことは、まず、私自身のために、大きな益になることを、思い出そうと思います。

その人のためであるよりもまず、私の心が、自由になります。

憎しみやわだかまりをもっていると、その人のことを忘れずにいることになるので、

一層不愉快な気持ちが続くわけですが、相手をゆるすことで、その執着が絶たれます。

ネガティブな気持ちから開放されること、、、これは本当に救いです!

こんなことを書くのは、、これは自分のためだと言い聞かせることで、

ゆるそうという気持ちが少しでもすすむならば、いいことだと思うからです。

 

ともあれ、「ゆるし」は、人のわざではなく、神さまのみわざです。

私の力ではできないことなのです。

けれど、ゆるせるように力をくださいと祈るとき、神さまは絶対に聞き入れてくださいます。

なぜなら、それはまず神さまの切なる願いであり、私たちに、そのためにこそ

祈って欲しいと願っておられるテーマだからです。

 

神さま、あなたの願いが私を通して実現しますように。

すなわち、人をゆるすことができる存在へと、私を変えて行ってください。



2 コメント

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私もクリスチャンです (久仁子)
2012-09-19 19:04:30
とても苦しんでいらしたのですね?

完全に解放されるといいですね。

私たちは幸せになるために

創られていると思います。

ゆっくり歩いて行ってください。
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ありがとうございます (べねでぃくた)
2012-09-20 08:11:00
つたない文章に心をとめてくださり
ありがとうございます

さながら、旅の途中通りすがりの方に
冷たくて、美味しい水をいただいたような・・・
そんな清涼感に満たされました
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