カタツムリの歩み

社会復帰と教会復帰を模索する、引きこもりな猫族のつぶやき

侮辱、それは謙遜への学び舎

2012-09-16 22:39:08 | 日記

私がマリア様へのノヴェナ(9日間の祈り)を通して、もう一度神にたち帰る恵みを願おうと思ったきっかけは、現状の行き詰まりからでした。

 

現実逃避で、ずっとインターネットに長時間依存する生活をしていて、

ネットゲームなどを通じて、親しい友人もできました。

しかし元々対人関係が困難な病気を抱える身。

些細な言葉に翻弄され、不信に陥り、親しい友人とも言い合いになってしまったり。

更に悪意ある人の恨みを買い、2ちゃんねるに中傷記事を書かれまくったり・・・

それが連日のように続き、最初は話を聞いてくれた友人も、だんだんと

「2ちゃんねるを気にしすぎ」「見ないほうがいい」と、突き放すようになっていき・・・

こんなに辛い思いをしてもまだゲームを続けている自分は、いったい何なのだろうと思い始めたのでした。

まさしく、放蕩息子が本心にたち帰る経過とよく似ています。

 

今日、マリア様のお計らいで、大変久しぶりに主日ミサにあずかることができました。

自転車のペダルを漕ぐ力もなく、数分の買い物に出かけるだけでやっとの私が、

歩いて1時間の教会に出向くとは・・・。

遅刻で間に合わなかった第一朗読は、主の受難を暗示するイザヤ書でした。

「主なる神はわたしの耳を開かれた。

わたしは逆らわず、退かなかった。

打とうとする者には背中をまかせひげを抜こうとする者には頬をまかせた。

顔を隠さず に、嘲りと唾を受けた。

主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない。

わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている、わたしが辱め られることはない、と。」

 

イエスがあれほどの侮辱を耐えられたのは、主が無神経だったからではありません。

身体的な苦痛はもとより、その心にも、どれだけの槍が突き立てられたことか。

 

2ちゃんねるでの中傷の数々を思い出すと、やり場のない気持ちで一杯になります。

事実でないことをそうだと決めつけられたり、他の人がしていたことを、身代わりで悪者扱いされたり・・・・、内蔵に穴が開きそうな気がしてきます。

 

でも、私は今、謙虚になる必要があるのです。

なぜかというと、、、、ありのままの自分を受け入れて、そこから出発するためには、

真実に謙遜でなくては、できないことだからです。

 

「謙遜は、真理とともに歩む」と、アヴィラの聖テレサは言いました。

自分の認めたくない、目を背けたいような、卑しく惨めな現実。

落胆し、目を覆うばかりの、あさましい現実。

そういうところにちゃんと足をつけて、そこから歩き直さなくてはいけないのです。

 

2ちゃんで叩かれている内容は、確かに間違っています。

でも、人々には知られていない、私のたくさんの欠点、たくさんの悪行、罪の根っこは、

ここに書かれていません。

それをよく考えれば、こうして非難されることは、私が謙虚になるために役立ちます。

 

私は主イエスの弟子になろうとしているはずではありませんか?

善しか行わなかった師が、これほどの侮辱を受けられたのに、

元から侮辱にふさわしい存在である私が、どうしてそれを避けようとするのでしょうか。

 

イエスとともに、あらゆる侮辱を甘んじて受けられたマリア様、

ここから謙虚になるすべを、私に教えてください。

理想の私ではなく、現実の私に、あなたのあわれみのわざを引き寄せるために、

謙虚な心と真実を見つめる目を、お与えください。



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