ー神よ、わたしを力づけ、
急いで助けに来てください。
神を思い出すことなく長い年月を過ごした後で、ふと、神を思い出し、
神の助けを得ようと思ったとき、最初に浮かんだのは、この言葉でした。
もともとは、詩篇のどこかにある聖句なのですが、
これは教会の祈り(聖務日課)で、祈りを始めるときの、最初の言葉です。
「教会の祈り」は、世界中のカトリック司祭・修道者が毎日の祈りの義務としているもので、
しばしば一般信者もこれを共に祈っています。
朝昼晩、寝る前と読書、観想修道会であればさらに祈りの回数が増えますが、
詩篇と福音書、使徒書、・・・聖書の言葉が実に見事に編まれていて、
もうこれだけで他の本はいらないくらいに豊かな祈りの宝庫となっています。
とはいえ、今わたしが「教会の祈り」をしているわけではありません・・・
これは何気ない、祈りへの招きの言葉にすぎないのですが、
私が神を思い出し、神の助けを乞い、神とともにこの時を過ごそう、と思うときに、
とても助けになる開始のことばだと気がつきました。
私の日常の活動が、本当に本当に低下しているため・・・・
ようやく食料の調達に外出したとき、そのおぼつかない足取りの歩みで、、、
散らかった台所を片付けるために立ち上がり、水道の蛇口をひねったとき、、、
私は、この言葉が、しばしば口にのぼるようになりました。
ー思念がすべてを悪くする。何か思念の起こった時、それが、自分の今していること、
あるいはたすかりのために必要でないときづいたならば、ただちに捨て去り、
平和と満足とを味わっていた神との語らいに、また戻るように心すべきである。
(ご復活のラウレンシオ修士、「神の現存の体験」)
これは私のために言われたような言葉です。
むしろ、ほとんどすべての時間の思念が悪い状態にある私ですが、
思い立ったときだけでも、神を思い出し、神に心を上げること。
わずかな時間であっても、神とともに過ごす機会を増やすこと。
今は、これに尽きるのかな、、、と思います。
実は、、ノヴェナを始めて、生活のなかで意識を高めたことで、
以前にもまして、自分の暗闇に気づいてしまった部分があるのです。
悪い思念に捕らわれていると気がつきながら、悪化してしまった知人との関わりを
どうすることもできなかったり・・・・。
今まで以上に、牢獄に住むことに辛さを自覚したり・・・。
目が見えてくるようになれば、現実の酷さも、一緒に見えてくる。
麻酔が切れれば、意識は戻るけれども、強烈な痛みも戻ってくるのと似ています。
意識は戻ったほうがいいのですから、今は辛抱するしかないのですよね><。
そうです。霊的生活を取り戻すには、忍耐が必要です。
どっちみち、私はいつもいつも、辛抱していました・・・
自ら招いた牢獄に住み続けるには、どれだけの忍耐が必要だったか!
なぜ好き好んで、このような忍耐を続けてきたのかと思うほど、
たくさんの忍耐をしています・・・まったく無意味なことなのですが・・・
今度は、その忍耐を、良くなるためにすればいいのです・・・
残念なことに、不毛な苦しみもあれば、よき実りを生む苦しみもある。
時間によって、癒される痛手もあれば、
時が止まったままになっている痛みもある。
不幸にも、変容して、すっかり別物になってしまう痛みもあります・・・
どちらにせよ・・・この傷だらけの私を、主よ、あなたにお見せしましょう。
私には、自分をどうすることもできないのです。
「良くなりたいのか。」
はい、そうです。良くなりたいのです。
そう望みますから、主よ。急いで助けに来てください・・・・
罪人のよりどころ、憂き人の慰めである聖母マリア様、
私が御ひとり子に立ち戻れるように、私の手を引いてください。
私は、一人では満足に歩けない子どもに過ぎないのです・・・・
マリア様。いつか、いつか、、、あなたの足元で、
その貴いマントに隠れてちょこんと座り、ごろごろと喉をならして休みたい・・・
それが、猫である私の憧れなのです
今はまだ、そんな大胆なことができるほど、親しくしていないのですが、
そのおゆるしをいただけるくらいに、いつかあなたと親しくなりたいと願っています・・・
ところで、トラ縞の猫の額にはよくMの字のような模様がありますよね。ご存じかもしれませんが、あのMの字は、泣いていた赤ちゃんのイエス様を慰めてにっこりさせた猫に、マリア様が感謝の印としてくださったものとか。
うちの猫の額には、う~ん、微妙。Mの字があるような、ないような・・・