生来の性格のため、「人のことを気にしすぎる」と、いつも言われます。
私が抱える内心の不安の多くは、確かに、人からどう思われるかを気にしすぎることから来ているだろうと思います。
しかし、そこまで分かったとしても、何の解決にもならないのです。
「考えすぎ」「気にしすぎ」 確かに。けれど、、、不安で一杯になっている心は、
どうしたら、「気にしすぎ」ることをやめ、「考えすぎ」ることをやめられるのでしょう?
哀しくなるくらい、多くの人から繰り返し、気にしすぎだと言われました。
けれど、「どうしたらやめられるのか」という問い返しをしたとき、
満足のいく返事をもらったことは、ほとんど記憶にありません・・・
私にも、それはわかっています・・・でも、これが私の気質なのです。
直せるものなら、直したい。心がけたい。でも、「考えすぎ」の一言で終わりになると、
このままの自分では、受け入れてもらないのか。失格なのか。とがっかりします。
確かに、不安ばかり口にしている人とは、付き合いたくなくなる気持ちもわかりますので、
結局、人の重荷になることしかできないんだな・・・と思い、寂しい気持ちを抱えつつ、
人との接触にも遠ざかるようになっていきます。
こんな自分の現状が一つはっきりしたので、マリア様の誕生日のノヴェナとして、祈ることにしました。
おぼろげながら、私が気がついたこと・・・
気にしていることを、気にしないようにと思っても、それは逆効果なのです。
毛糸にからまった猫が、解こうとして毛糸に飛び込んで、ますますからまっていくようなものです。
気にしなくなるための一番いい方法は、たぶん、別の、もっといいことに心を向けることです。
「我を忘れる」「没頭する」という表現があります。
接戦を繰り返すスポーツの試合観戦でもいいし、ハラハラドキドキのドラマでもいい。
心にしみわたる音楽を聞き惚れてもいい。
でもたぶん、一番いいのは、神を思い起こし、神に私のまなざしを向けることです。
神様を見つめて、神様にとらわれてしまえたなら・・・!
それに、神様になら、いくら愚痴っても、嫌がられることはないのです。
周りを気にしすぎる私・・・・ささいな言葉で、転覆してしまう私・・・・
それは人を気にしすぎるからだ、と言われて、さらに凹む私・・・
いつも不安なことしか口にできない私・・・迷惑な存在にしかならない私。
神よ、あなたを見つめる修行を、もう一度やり直させてください。
いつ駆け込んでも、私がどんな状態でも、あなたには、ぶれることがない。
あなたのまなざしだけに生きて、私のすべてが溶けてしまえばよい。
人を気にするのではなくて、、、神よ、あなたをいつも気にする私でありますように。
吹いたら飛ぶような塵よりも軽い、人の言動に振り回されるのではなくて、、、
いつまでも変わることのない、真理であるあなたの言葉を、基準にすえられますように。
マリア様、どうか私を御ひとり子の元へ導いてください。
あなたは、御子によって、すべての人が救われることを何よりも望まれます。
どうやって立ち返ればいいのかさえ分からない私を、助けに来てください・・・・