「反・幸福論」 著:佐伯啓思『新潮45』 (2013年第7月号)から抜粋
真の国際化とは、自分自身の頭で考え、日本の「旧なるもの」のうちに取るべきものを取り、残すべきものを残し、それを大切にした上に外国文明を取り入れることができるようになること。「旧なるもの」を捨て去ることでは国際化はできない。、
小見出し”「進歩か、退歩か、」から引用 p.326-327
福沢諭吉は『文明論之概略』に次のようなことを書いています。
「思想浅き人は、世の有様の旧に異なるを見て之を文明と名づけ、我が文明は外国交際の賜物なれば、その交際いよいよ盛なれば世の文明も共に進歩すべしとて、こを喜ぶ者なきにあらざれども、その文明と名のるものはただ外形の体裁のみ。もとより余輩の願うところにあらず。たといあるいはその文明をして頗る高尚のものならしむるも全国人民の間に、一片の独立心あらざれば文明も我が国の用をなさず、こを日本の文明と名づくべからざるなり。」(巻之六第十章 自国の独立を論ず)
思慮の浅い人は、古いものを捨て去ることを文明化だと思い、「コクサイカ」を進めれぼ日本も文明化できると考えている。しかしそれはただの外形だけのことで、そもそも日本人に一片の独立心がなければ、そんなことには何の意喋もない、というわけです。
一片の独立心」とは、われわれ自身の頭で考えること、日本の「旧なるもの」のうちに取るべきものを取り、残すべきものを残し、それを大切にした上に外国文明を取り入れる、ということでしょう。
もちろん福沢は当時のもっともすぐれた外国通であり、英語に堪能だった。決して英語教育そのものに反対したわけではないでしょう。ただ、英語、英語といっているうちに、肝心要のもっと大事なものが忘れられ、気がつけば「一片の独立心」も失われてしまう、ということを危惧したのです。
『新潮45』 (2013年第6月号), p.326-327
真の国際化とは、自分自身の頭で考え、日本の「旧なるもの」のうちに取るべきものを取り、残すべきものを残し、それを大切にした上に外国文明を取り入れることができるようになること。「旧なるもの」を捨て去ることでは国際化はできない。、
小見出し”「進歩か、退歩か、」から引用 p.326-327
福沢諭吉は『文明論之概略』に次のようなことを書いています。
「思想浅き人は、世の有様の旧に異なるを見て之を文明と名づけ、我が文明は外国交際の賜物なれば、その交際いよいよ盛なれば世の文明も共に進歩すべしとて、こを喜ぶ者なきにあらざれども、その文明と名のるものはただ外形の体裁のみ。もとより余輩の願うところにあらず。たといあるいはその文明をして頗る高尚のものならしむるも全国人民の間に、一片の独立心あらざれば文明も我が国の用をなさず、こを日本の文明と名づくべからざるなり。」(巻之六第十章 自国の独立を論ず)
思慮の浅い人は、古いものを捨て去ることを文明化だと思い、「コクサイカ」を進めれぼ日本も文明化できると考えている。しかしそれはただの外形だけのことで、そもそも日本人に一片の独立心がなければ、そんなことには何の意喋もない、というわけです。
一片の独立心」とは、われわれ自身の頭で考えること、日本の「旧なるもの」のうちに取るべきものを取り、残すべきものを残し、それを大切にした上に外国文明を取り入れる、ということでしょう。
もちろん福沢は当時のもっともすぐれた外国通であり、英語に堪能だった。決して英語教育そのものに反対したわけではないでしょう。ただ、英語、英語といっているうちに、肝心要のもっと大事なものが忘れられ、気がつけば「一片の独立心」も失われてしまう、ということを危惧したのです。
『新潮45』 (2013年第6月号), p.326-327
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます