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都内散歩 散歩と写真 

散歩で訪れた公園の花、社寺、史跡の写真と記録。
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西田哲学「純粋経験」ということ 『新潮45』 (2013年第8月号)佐伯啓思著

2014-01-23 19:51:00 | 抜粋
『新潮45』 (2013年第8月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第31回 ”西田哲学「純粋経験」ということ ”p.326-334

小見出し”かくて「私」は存在する”から引用 (太字はブログ管理人が作成)
桜の花が一気に満開になっています。美しさにアッと息をのみます。少しして「なんと美しい花だ」といいます。p.326
「なんと美しい花だ」という時には,「この花は美しい」という事実がいわば対象化されています。・・・・「私」が「美し花」を「見た」のです。これは認識であって、経験ではありません。p.328

しかし、花を見た一瞬、アッと息をのんだ時、私はある経験をしています。しかし、この時には、「私はいま桜を見ている」ということさえもできません。「きれいな桜だな」などと考えたりもしません。そんな明瞭なな認識はないのです。この一瞬には言葉もでてこないのです。ただ経験があるのみです。そこには、「私」もなければ、対象化された「桜」もありません。いわば両者が融したような経験だけがあるのです。
西田は、こうした経験を純粋経験と呼んだのですが、それは、「私」という主体と「桜」という客体が区別される以前のもので、「私」というものは、あとからその経験を振り返ってでてくる。p.328

純粋経験こそが本質(実在)だとする西田の観点に立てば、「私」という「主体」は後付けで反省的に打ち出されるもので、純粋経験のうちにはない。・・・
むしろ、この強烈な経験があるからこそ、そこから「私」は押し出され来たというきでしょう。「私」が「経験」するのではなく、「経験」が「私」を生みだすのです。経験があるからこそ、それを反省的に理解して、そこに「私」がでてくるわけです。「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人ある「(『善の研究』)というわけです。p.331
そこで、もしも・・桜を見て息をのんだ瞬間に戻ろうとすれば、「私」というものを消し去らねばなりません。「私」を無化しなければなりません。少なくとも「私」が「私」がといっている間は、「私」と「桜」が一体となっており、息をのむいきをのむという感動だけが漂うというあの瞬間を想定することも難しいでしょう。まずは、「私」は無であるとしなければなりません。p331
桜に感動した時、われわれは「あまりの美しさに、我を忘れた」などといいます。しかし、「我」が確かにあって、たまたま「我」の意識がぶっとんだというわけではない。逆なのです。あの瞬間を反省した時に「我」がでてきたのです。あの瞬間には、「我」にあたる部分は「無」なのです。そして、この「無」があるからこそ、その後で、反省的に「私」が立てられることになる。だから「私は、私でなくして、私である」というようなことになる。p331

小見出し”西田の悲しみ”から引用 
 しかし、日本の思想には、どこか、「私」を消し去り、無化してゆく方向が色濃くただよっています。「主体」というものを打ちださないのです。これは、一言語的にいえば、日本語では、しばしば主語を省略したり、主語を重視しないという点にもあらわれてくるでしょう。和歌や俳句でも通常、主語はありません。一場の情景と、その場に溶け込んだ読み手の感情が一体化して切り詰められた言葉に乗せられるのです。むしろ、私を消し去ったところに、自然と一体となったある情感や真実が享受されると考える。p.332
「私」の思想や「私」の思いや「私」の経験を強く訴えるという散文はもともと日本人の得意とするところではなく、それは西洋的なものといってよい。
 しかしまた、西田の「純粋経験」という考え方は、一方できわめて日本的であると同時に、実は、本当は西洋思想の根底にもあるはずだ、ということになる。西田は、これを「根本的実在」と考えており、別に日本人にしか理解できない、などといっているわけではまったくありません。すべての認識のもっとも深いところにあるものなのです。p.332

前回も書きましたが、西田は、8人の子どものうち5人までを失っています。これはまだ妻と死別する前ですが、大学のある同僚(朝永三十郎) にあてた手紙のなかでこんなことを書いています。
「余の妻よりよき妻は多かるべく、余の友よりよき友は多かるべし。しかし余の妻は余の妻にして、余の友は余の友なり。」p.332-3
 そうだとすれば、妻子の死に直画した西田の悲しみは、まさに西田の悲しみであって、世に子どもを失った親はあまたある、という話ではありません。悲しみという経験は、それがたとえどれほどちっぽけでささいでつまらないものであっても、他人に代わってもらうこともできません。他人の悲しと比較することもできません。それは個人の実存にかかわる経験なのです。そこにどうしようもない、「個」というものがでてくる。抽象的な「私」ではなく「個」なのです。「経験」という場におい「個」が意識され、たちあげられるのです。桜の美しさに感動するというような経験も、究極のところ、言葉で表現して他人に伝えられるものでもありませんが、おそらくは、悲しみの感情は、それ以上に「個」というものをいやおうなく屹立させるものなのです。とりわけどうしようもなく理不尽な経験をした場合、私たちは、つい「どうして自分がこんな目にあうのか」と思ってしまう。「なぜ自分なのか」と自らを責めてみたり、運命を呪ってみたくなります。平安時代の日本人は、そこに怨霊のような大智を超えた超自然的原因を想像することができたのですが、今日のわれわれは、肉親の死を怨霊のせいだというわけにはいきません。この理不尽さの前に1人で立ち尽くすほかないのです。p.333
 しかしまた、実は、「なぜ自分がこんな目にあうのか」といった時には、もうそれは本当の経験ではなくなっている。チャイコフスキーが「悲愴父響曲」というの絶望的な曲を書いた時には、彼は絶望そのもののなかにいるのでない。絶望を曲にする「私」がそこにいる。本当に絶望という経験そのもののなかにいる時には、作曲などできないでしょう。そして身内を失った苦痛を訴える時、そこには「自分」がたちあらわれ、やがてそれは「私」になり、反省的に振り返り、説明を求めてくるのです。ここにある程度、経験を客観化した「私」がでてくる。
 しかし、その場合、デカルトのように、経験などよりも前に最初から「私」があり、しかも一貫して変わらぬ「私」がまずある、とすれば、この「私」を消し去ることなどできないでしよう。「私」は常に、経験を捉え返し、それがどうして生じたのかを考えるほかない。巨大地震がやってきて一瞬にして家が流され、身内が死ぬ。この筆舌に尽くしがたい苦しみを事実として捉え返し、ではどうすればよいか、と考える。この事態を引き起こした原因はどこにあるのか、地震を引き起こすメカニズムは何なのか、という方向にゆくでしょう。p.333
 しかし西田的にいえば、苦痛のなかから「どうして私はこんな目にあうのか」と思った時、その経験を通して初めて「私」がでてくるのです。そしてもしも「私」が、このとてつもない経験によってでてきてしまったのだとすれば、その「私」は無化することができるはずです。完全に「無」へと戻すことはできないにしても、できるだけ「自我」を抑えることはできるのです。いや、その方向へと働く意識があるのではないでしょうか。前号でも引用しましたが、西田は「我が子の死」と題するエッセイのなかで次のように述べていました。「後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。・・・深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依する時……」。p.333
「いったいどうしてなのだ」という時には、すでに自我がのさばっている。「ああすればよかった」と後悔する時にも、すでに自分をかいかぶっているのです。
 その「自我」を捨てなければならない。「無」の方へ押しやらなければならない。そして、この「無」こそが本当に「私」がいる場所なのです。喜びであれ、驚きであれ、悲しみであれ、純粋経験の方が、根本的実在なのであって、「私」などというものは「根本的」には存在しない、あるのは、ただ様々な経験だけだ、というのです。p.334

「私」も、対象化された「桜」もなく、いわば両者が融したような経験だけがある・・こうした経験を純粋経験と呼んだ。それは、「私」という主体と「桜」という客体が区別される以前のもので、「私」というものは、あとからその経験を振り返ってでてくる。
あの瞬間には、「我」にあたる部分は「無」なのです。そして、この「無」があるからこそ、その後で、反省的に「私」が立てられることになる。だから「私は、私でなくして、私である」というようなことになる。
苦痛のなかから「どうして私はこんな目にあうのか」と思った時、その経験を通して初めて「私」がでてくるのです。そしてもしも「私」が、このとてつもない経験によってでてきてしまったのだとすれば、その「私」は無化することができるはずです。
「いったいどうしてなのだ」という時には、すでに自我がのさばっている。「ああすればよかった」と後悔する時にも、すでに自分をかいかぶっているのです。その「自我」を捨てなければならない。「無」の方へ押しやらなければならない。そして、この「無」こそが本当に「私」がいる場所なのです。喜びであれ、驚きであれ、悲しみであれ、純粋経験の方が、根本的実在なのであって、「私」などというものは「根本的」には存在しない、あるのは、ただ様々な経験だけだ。
 


佐伯啓思著 第31回「反・幸福論」.『新潮45』 (2013年第8月号) p.326-334



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