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都内散歩 散歩と写真 

散歩で訪れた公園の花、社寺、史跡の写真と記録。
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日本人にとって憲法とは何なのか 『新潮45』8月号 

2014-01-22 08:51:51 | 抜粋
『新潮45』 (2013年第8月号)佐伯啓思著. ”特集 私の憲法論 日本人にとって憲法とは何なのか” p.36-39 
小見出し”この論理の奇妙さ”から引用

憲法とは、国民の総意に基づく根本規範なのだ。ところが、すべての人が合意して自らを縛り付ける最高の規範を作りだすとはいったいどうゆうことなのか、それがよくわからない。p.36

「最高の規範」と、それを作り出す「自らの意思」のどちらが上位にくるのか、ということだ。「最高の規範」とはそれを超える規範は存在しないことを示している。ところが、規範も意思の表明である限るこの規範を生みだす意志(国民の意志)は、論理上、憲法よりも上位に来るはずであろう。p.36

この矛盾は、もう少し憲法の条項に即していえば次のようになる。たとえば、憲法の前文には「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とあり、第41条に「国会は、国権の最高の機関であって・・・」とある。p.36

しかし、考えてみれば奇妙なもので、この場合、国民主権は憲法によって保障されているのである。そして「主権」とは最高の意思である。最高の意志の発動は国会においてなされる。ではもしも国会が憲法を超える意思決定をすればどうなるか。p.37

近代憲法では、「国民主権=民主主義の原理」と「基本的人権の保障」を二つの支柱としている。特に、近代憲法として「近代」が強調される場合には、普遍的権利としての基本的人権保障が強調される。つまり、国家権力から人権を守る、というのである。
こうなると、・・・誰もがこの論理の奇妙さに思いいたるであろう。一方で国民主権(民主主義)を唱え、他方で人権によって主権を制限するというのである。近代民主国家では、国家権力を動かすものは、究極的には主権者である国民なのである。とすれば、人権保障による国家権力の制限とは、国民主権(民主主義)の制限を意味することになる。それでは主権の意味はどこにあるのか。主権(民主主義)などといいながら、それは憲法(人権)によって最初から制限されていることになる。p.37

どうしてこんなおかしなことになるのか。それは、近代憲法が、実は歴史的に「革命」の産物だからである。近代憲法の嚆矢はフランス革命にあるとされるが、それはまさしく市民革命の産物であった。フランス革命によって旧体制を崩壊させ、革命によって新政府を生み出した。新政府を創出したのは第三身分としての「市民」であり、そこで「市民」が、彼らの支配体制の正当化を図るために生み出したのが憲法である。
したがって、そこに当然、人民主権の原理が書かれ、同時に、革命の正当性を与えるために「自然権としての基本的人権保障」が謳われることになる。基本的人権保障は絶対王政への批判であり、人民主権(民主主義)は新政府の正当化原理であった。p.37

絶対主義への批判において、人民主義と基本的人権保障は矛盾しないのである。両者は一致する。しかし、絶対主義が打ち倒され、人民が主権者となった近代社会では、・・・「国民主権(民主主義)」と「基本的人権保障」の二つの支柱を内包する近代憲法は、その内部に矛盾を抱え込むことになる。
繰り返すが、この矛盾は、近代憲法が市民革命の産物であるために生み出されたのであった。「革命」とは、旧体制を破壊した市民による権力の奪取である。一時的な無政府状態が生じ、この無秩序の中から市民は新たな政府を構成する。その新たな権力の正当化が近代憲法であった。
だから近代憲法は、一方で権力の抑制(権力の批判)を行い、他方では権力の正当化を行うのである。端的に言えば、市民階級は、みずからの権力を改めて憲法によって正当化しようとしたのである。p.38

小見出し”「護憲」でも「改憲」でもなく”から引用
そもそも革命を経験していない国で近代憲法をもつことが可能なのか、という問いである。p.39

日本では歴史の大きな断絶がなく、国の秩序の根本において断絶がない。これは福沢諭吉も述べるように、政治権力の形式上の正当性が天皇という権威によって与えられてきたからだ。変形された君主制とみてよいであろう。そのような国においては、近代憲法はそのままでは創設されえないのである。p.39

本質的なことをいえば、政治権力の革命的な断絶をもたない国では近代憲法をもつことはたいへんに難しいのである。しかしそのことはまた近代憲法のあの矛盾に悩まされる必要もない、ということである。
憲法(コンスティチューション)とは、まさしく「国のかたち」、もっといえば「国体」という意味である。日本の憲法は、もしそれがあるとすれば、日本の「国のかたち」を記すものであろう。それは、歴史的にもたらされたもの、積み重ねられたもの、新たに加えられたもの、の集積である。このような次元まで立ち入って、「われわれにとっての憲法」を改めて創出することには意義があるだろう。p.39

『新潮45』2013年8月号 特集私の憲法論 日本人にとって憲法とは何なのか p.36-39
近代憲法は革命の産物である。日本には革命的な断絶の歴史はない。国体・国のかたちを記すことで憲法を創出することはできる。そこに記されるのは「歴史的にもたらされたもの、積み重ねられたもの、新たに加えられたもの、の集積である」。



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