『新潮45』 (2013年第12月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第35回 ”西田のなかの宗教観” 副題(日本に「個人主義」の観念が根付かないのは何故か。文化の相違として論じられる宗教論を西田はどう見つめたか。) p.324-332
小見出し”西田の宗教意識”から引用
小見出し”西田の宗教意識”から引用
近代の日本における「個」の自覚と宗教意識の関係を、哲学の主題としてとりあげた人物は西田をおいて他にはない・・・。p.326
・・・・・、西田は、別に禅宗や真宗の教義の哲学化を意図しているのではなく、宗教の普遍的構造を哲学の主題にしたということなのです。・・・・・、宗教はまぎれもなく人間の心霊上の事実であって、その事実は哲学的に説明されなければならない、と彼はいうのです。p.327
結論を先取りしていえば、人間の存在の構造そのものが宗教的だ、と彼はいう。宗教は人間の妄想が生み出した幻影であるどころか、それこそが人間のありようのもっとも深いところに根ざしており、人間にとっては根本的な現象にほかならない、という。なぜなら、人間は、自己とは何かと問い詰める存在であり、そう問うた時、宗教なるものが問題とならざるをえないからです。
・・・
さらに続けて彼はいっています。「人生の悲哀」という事実を人は本当にはつきつめてみていない。ここには自己の矛盾があって、その矛盾をつきつめれば「死の自覚」になる。ここに宗教的意識がある、というのです。
はたしてどういうことを西田はいおうとしているのでしょうか。
人は誰も自分が死ぬことを知っています。普通、その意味は、人間も生物的な存在なので、あらゆる生物と同様に私も死ぬことがわかっている、ということです。つまり、頭でわかっているのです。理性でわかっているのです。p.327
だから、われわれが「死」というものを自覚するのは、・・・・。それは、個体として、生命体として、いまここにいる「私」が全面的に消滅し、なくなってしまう、というおぞましい、あるいはとてつもなく恐ろしい意識にとらわれることなのです。どうにもならない圧倒的な何かによって「私」は消滅させられるのです。「私」というものが全面的に否定される。否定されることによって、「私」は「無」へ投げ込まれるのです。p.327
小見出し”「永遠の死」”から引用
こうして「死」は永遠の「無」へわれわれを投げ込む。そして「無」は無限であり、永遠です。だから「死」はそれ自体が永遠だともいえるでしょう。「永遠の死」といってもよい。より正確にいえば、「死」によって、われわれは「無」という永遠のものに触れるのです。このとき、「無」という無限の前で、「私」はようやく自分を死すべき存在であることを知ることができる。
・・・・、「私」という「個」の消滅は、「永遠なるもの」という「絶対なるもの」(絶対者)の前において初めて理解されることになる。
しかも、「私」という生命ある個体は、この「絶対的なもの」によってその生命をバッサリと否定されてしまうのです。「死」という絶対的なものによって、私という生命体は完全に否定される。p.326
「永遠なるもの」「無限なるもの」すなわち「絶対なるもの」(絶対者)が存在することによって初めて「私」は死すべきものとして自己を意識することになる。しかもそれはほかならぬこの私であって、「私」という「個体」の身の上の事実にほかなりません。・・・・
こうして、ほかならぬ私という「個」は、死すべきものとして初めて意識される。「私」は、「絶対なるもの」の前で死ぬものとしてようやく生きた「個」として自分を自覚することになるのです。絶対者がなければ、「個」という死すべきものもないのです。p.326
そして、「自己の永遠の死を知るもののみが、真に自己の個たることを知る」のであり、「それのみが真の個である、真の人格である」というのです。p.326
・・・・われわれが、自己を自己として意識するのは、「死」というものによって、自己をまずは全面的に否定されることによってなのです。
もちろん、文字通りに死んでしまえば何の意味もありません。だからこれは、死の自覚において、絶対的な「無」の前で、自己という「有」を一度はすべて捨て去る、ということにほかならないでしょぅ。この矛盾したあり方においてのみ、「個」というものが自覚される。・・・・・、死がもたらす永遠の無を知れば、「私」などは実にちっぽけなほとんど偶然に生をつむいでいるささやかな存在である、と自覚されるということです。
そのとき、「永遠の死」は、実は、私自身の「内」にある。「永遠の無」も外にあるのではなく、われわれの内にある。われわれは、われわれの心の底に、すでに、われわれの存在をいっきょに否定する「無」という絶対的なものをもっているのです。
だから、「個」の自覚は、わが内なる「永遠の無」に向き合い、私を否定する絶対者の自覚によって生み出されることになるのです。p.328-9
自己を自覚するということは、絶対矛盾だという。それは次のようなことです。
自己が死すべきものである、つまり、自分が永遠の死へ向けた存在であるということを知っているということは、永遠の死を超えた意識がそこにある、ということになります。そしてそれは絶対者の意識にほかならない。
とすれば、自己の奥底には自己を超えた絶対者がある、ということになる。自己の内に、自己を否定する絶対者があるのですから、これはどうしようもない矛盾だ。しかし、その矛盾がなければ自己という自覚はありえない、といっているのです。
・・・・ちっぽけで塵芥のごとき自己は、あるいは親しい人は、かけがえのない、一回限りの、まさに今そこにいる「個」として自覚されるのではないでしょうか。つまり「人格」として意識されるのです。ということは、われわれは、永遠の死(無)という絶対者によって、一度は、自己を否定されて初めて「人格」的な「個」という自覚をもつことになるのです。
しかも、この絶対者はあくまで自己の「底」にある。こうして、自己の根源を覗き込み、そこにある矛盾に到り、その底にある絶対的なものに触れることこそが宗教的な意識なのです。「自己が自己の根源に徹することが、宗教的入信である」と西田はいう。この根源にある矛盾を自覚し、絶対的なものにおいてしか自己というものはあり得ない、と知ること。それこそが宗教だという。それを西田は「廻心」というのです。p.329-330
小見出し”悪魔的世界”から引用
西田は次のようにいうのです。絶対的なものが、自らを否定することによって相対的なものが成り立つ。また、相対的なものが自らを否定することによって絶対が現れる。絶対的なものと相対的なものは、それぞれ、自らを否定することによって、他方へと現れるのです。これを西田は「逆対応」という。
ここまでくれば「絶対的なもの」とか「相対的なもの」という抽象的ないい方をする必要はもうないでしょう。いうまでもなく、「絶対的なもの」とは「神」といってよい。「相対的なもの」は「人」です。「神」は、自己否定として「人」において現れ、「人」は、自己否定することで「神」に接するのです。「神」と「人」は、それぞれ、自らを否定することで、逆接的に相互に接しているのです。p.330
とはいえ、キリスト教の「神」と仏教的な「無」はやはり違っている。そして、実は、ここに日本の「無の思想」の本質があるのではないでしょうか。
先に、「絶対的なもの」と「相対的なもの」をそのまま対比させれば、「絶対的なもの」まで相対的になってしまい、絶対的ではなくなる、といいました。その場合、もしも、「絶対的なもの」が実体をもった存在であれば、どうしてもそれは相対的になってしまうでしょう。だから、「絶対的なもの」は、本質的に実休をもたないのです。つまり「無」であるほかないのです。絶対者とは、本質的に「無」になる。永遠の死であり、永遠の無ということになる。しかし、西洋の宗教は、そこに「神」という全能の絶対者をもってきました。日本では、それは「無」というはかないのです。いや、「神」といえども、その本質は「無」ということになるのです。p.331
・・・・・・われわれの根底には、死の背後に広がる無限の「無」という意識があるのではないでしょうか。その「無」の前では、われわれの自己などというものへの執着は取るに足りません。また、絶対者の自己否定であるこの世が、ともすれば悪と苦に満ちた穢土(エド)であることを自覚すれば、われわれは、自らの心の底に「絶対者からの呼びかけ」を聞くことができるのかもしれません。それはやはり「良心」というべきものなのです。西洋では、呼びかける絶対者は「神」でした。日本では、それは漠然と「無」と意識されるものなのです。そして、西田は、いわば論理的にいって「無」の方が、より根源的だと見ているのです。p.332
『新潮45』 (2013年第12月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第35回 ”西田のなかの宗教観” 副題(日本に「個人主義」の観念が根付かないのは何故か。文化の相違として論じられる宗教論を西田はどう見つめたか。)からすべて抜粋 p.324-332
・・・・・、西田は、別に禅宗や真宗の教義の哲学化を意図しているのではなく、宗教の普遍的構造を哲学の主題にしたということなのです。・・・・・、宗教はまぎれもなく人間の心霊上の事実であって、その事実は哲学的に説明されなければならない、と彼はいうのです。p.327
結論を先取りしていえば、人間の存在の構造そのものが宗教的だ、と彼はいう。宗教は人間の妄想が生み出した幻影であるどころか、それこそが人間のありようのもっとも深いところに根ざしており、人間にとっては根本的な現象にほかならない、という。なぜなら、人間は、自己とは何かと問い詰める存在であり、そう問うた時、宗教なるものが問題とならざるをえないからです。
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さらに続けて彼はいっています。「人生の悲哀」という事実を人は本当にはつきつめてみていない。ここには自己の矛盾があって、その矛盾をつきつめれば「死の自覚」になる。ここに宗教的意識がある、というのです。
はたしてどういうことを西田はいおうとしているのでしょうか。
人は誰も自分が死ぬことを知っています。普通、その意味は、人間も生物的な存在なので、あらゆる生物と同様に私も死ぬことがわかっている、ということです。つまり、頭でわかっているのです。理性でわかっているのです。p.327
だから、われわれが「死」というものを自覚するのは、・・・・。それは、個体として、生命体として、いまここにいる「私」が全面的に消滅し、なくなってしまう、というおぞましい、あるいはとてつもなく恐ろしい意識にとらわれることなのです。どうにもならない圧倒的な何かによって「私」は消滅させられるのです。「私」というものが全面的に否定される。否定されることによって、「私」は「無」へ投げ込まれるのです。p.327
小見出し”「永遠の死」”から引用
こうして「死」は永遠の「無」へわれわれを投げ込む。そして「無」は無限であり、永遠です。だから「死」はそれ自体が永遠だともいえるでしょう。「永遠の死」といってもよい。より正確にいえば、「死」によって、われわれは「無」という永遠のものに触れるのです。このとき、「無」という無限の前で、「私」はようやく自分を死すべき存在であることを知ることができる。
・・・・、「私」という「個」の消滅は、「永遠なるもの」という「絶対なるもの」(絶対者)の前において初めて理解されることになる。
しかも、「私」という生命ある個体は、この「絶対的なもの」によってその生命をバッサリと否定されてしまうのです。「死」という絶対的なものによって、私という生命体は完全に否定される。p.326
「永遠なるもの」「無限なるもの」すなわち「絶対なるもの」(絶対者)が存在することによって初めて「私」は死すべきものとして自己を意識することになる。しかもそれはほかならぬこの私であって、「私」という「個体」の身の上の事実にほかなりません。・・・・
こうして、ほかならぬ私という「個」は、死すべきものとして初めて意識される。「私」は、「絶対なるもの」の前で死ぬものとしてようやく生きた「個」として自分を自覚することになるのです。絶対者がなければ、「個」という死すべきものもないのです。p.326
そして、「自己の永遠の死を知るもののみが、真に自己の個たることを知る」のであり、「それのみが真の個である、真の人格である」というのです。p.326
・・・・われわれが、自己を自己として意識するのは、「死」というものによって、自己をまずは全面的に否定されることによってなのです。
もちろん、文字通りに死んでしまえば何の意味もありません。だからこれは、死の自覚において、絶対的な「無」の前で、自己という「有」を一度はすべて捨て去る、ということにほかならないでしょぅ。この矛盾したあり方においてのみ、「個」というものが自覚される。・・・・・、死がもたらす永遠の無を知れば、「私」などは実にちっぽけなほとんど偶然に生をつむいでいるささやかな存在である、と自覚されるということです。
そのとき、「永遠の死」は、実は、私自身の「内」にある。「永遠の無」も外にあるのではなく、われわれの内にある。われわれは、われわれの心の底に、すでに、われわれの存在をいっきょに否定する「無」という絶対的なものをもっているのです。
だから、「個」の自覚は、わが内なる「永遠の無」に向き合い、私を否定する絶対者の自覚によって生み出されることになるのです。p.328-9
自己を自覚するということは、絶対矛盾だという。それは次のようなことです。
自己が死すべきものである、つまり、自分が永遠の死へ向けた存在であるということを知っているということは、永遠の死を超えた意識がそこにある、ということになります。そしてそれは絶対者の意識にほかならない。
とすれば、自己の奥底には自己を超えた絶対者がある、ということになる。自己の内に、自己を否定する絶対者があるのですから、これはどうしようもない矛盾だ。しかし、その矛盾がなければ自己という自覚はありえない、といっているのです。
・・・・ちっぽけで塵芥のごとき自己は、あるいは親しい人は、かけがえのない、一回限りの、まさに今そこにいる「個」として自覚されるのではないでしょうか。つまり「人格」として意識されるのです。ということは、われわれは、永遠の死(無)という絶対者によって、一度は、自己を否定されて初めて「人格」的な「個」という自覚をもつことになるのです。
しかも、この絶対者はあくまで自己の「底」にある。こうして、自己の根源を覗き込み、そこにある矛盾に到り、その底にある絶対的なものに触れることこそが宗教的な意識なのです。「自己が自己の根源に徹することが、宗教的入信である」と西田はいう。この根源にある矛盾を自覚し、絶対的なものにおいてしか自己というものはあり得ない、と知ること。それこそが宗教だという。それを西田は「廻心」というのです。p.329-330
小見出し”悪魔的世界”から引用
西田は次のようにいうのです。絶対的なものが、自らを否定することによって相対的なものが成り立つ。また、相対的なものが自らを否定することによって絶対が現れる。絶対的なものと相対的なものは、それぞれ、自らを否定することによって、他方へと現れるのです。これを西田は「逆対応」という。
ここまでくれば「絶対的なもの」とか「相対的なもの」という抽象的ないい方をする必要はもうないでしょう。いうまでもなく、「絶対的なもの」とは「神」といってよい。「相対的なもの」は「人」です。「神」は、自己否定として「人」において現れ、「人」は、自己否定することで「神」に接するのです。「神」と「人」は、それぞれ、自らを否定することで、逆接的に相互に接しているのです。p.330
とはいえ、キリスト教の「神」と仏教的な「無」はやはり違っている。そして、実は、ここに日本の「無の思想」の本質があるのではないでしょうか。
先に、「絶対的なもの」と「相対的なもの」をそのまま対比させれば、「絶対的なもの」まで相対的になってしまい、絶対的ではなくなる、といいました。その場合、もしも、「絶対的なもの」が実体をもった存在であれば、どうしてもそれは相対的になってしまうでしょう。だから、「絶対的なもの」は、本質的に実休をもたないのです。つまり「無」であるほかないのです。絶対者とは、本質的に「無」になる。永遠の死であり、永遠の無ということになる。しかし、西洋の宗教は、そこに「神」という全能の絶対者をもってきました。日本では、それは「無」というはかないのです。いや、「神」といえども、その本質は「無」ということになるのです。p.331
・・・・・・われわれの根底には、死の背後に広がる無限の「無」という意識があるのではないでしょうか。その「無」の前では、われわれの自己などというものへの執着は取るに足りません。また、絶対者の自己否定であるこの世が、ともすれば悪と苦に満ちた穢土(エド)であることを自覚すれば、われわれは、自らの心の底に「絶対者からの呼びかけ」を聞くことができるのかもしれません。それはやはり「良心」というべきものなのです。西洋では、呼びかける絶対者は「神」でした。日本では、それは漠然と「無」と意識されるものなのです。そして、西田は、いわば論理的にいって「無」の方が、より根源的だと見ているのです。p.332
『新潮45』 (2013年第12月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第35回 ”西田のなかの宗教観” 副題(日本に「個人主義」の観念が根付かないのは何故か。文化の相違として論じられる宗教論を西田はどう見つめたか。)からすべて抜粋 p.324-332
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