『新潮45』 (2014年第6月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第41回 ”京都と西田幾太郎 ”p.322-330
副題 : 西田のような哲学は京都からしか生まれなかったことは間違いない。決して東京では生まれない。
"小見出し”- - 「ちょっと散歩に」と"西田心痛の種"から引用
『新潮45』 (2014年第6月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第41回 ”京都と西田幾太郎” 副題(西田のような哲学は京都からしか生まれなかったことは間違いない。決して東京では生まれない。p.322-330)から抜粋
斜体字の部分は私が覚えのメモを挿入しています。
副題 : 西田のような哲学は京都からしか生まれなかったことは間違いない。決して東京では生まれない。
"小見出し”- - 「ちょっと散歩に」と"西田心痛の種"から引用
"哲学とはもともと人が生きる「道」をさし示すものだからです。このいい方が少し大げさなら、生きる方法を暗示するものだといってもいいでしょう。(p323)
ソクラテスの哲学について
ソクラテスにとっては、哲学(知を愛すること)とは、人が善く生きるための指針だったのです。それは「誤った思考」から人を救い出し、真理への道を示すものでした。(p323)・・・そのためにソクラテスが取った方法は「人との対話」でした。(p323)
ソクラテスの方法は、広場で公衆を前にして議論するのですから、知識は他人にもわかるように公共的なものでなければなりません。ここに、誰でもわかる「論理」というものがでてきます。(p324)
西洋の哲学は、人との対話によって、いわば知識が前へ前へと進化する方向へと向かうのでしょう。たとえば対話(ダイアローグ)は、やがてヘーゲルのような「弁証法(ディアレクティーク)」になるのです。(p324)
西田の哲学について
これに対して、わが哲学者、西田は、ひたすら歩きながら沈思黙考したのです。自己の内に沈潜し、自己内対話を行っていた西田の哲学は、ひたすら自己と向き合い、自己のうちを反省し、自己の底を覗き込もうとします。その底を突き破って、その果てに普遍的で絶対的なものを見出そうとしたのでした。(p324)
西田がやったのは「散歩」です。歩きながら「考えること」でした。彼が考えることで、そこに「道」ができたのです。西田にとって、哲学とは生きることそのものであり、生という事実に直結した営みだったのです。
「人生問題なくして何処に哲学というものがあろう」と彼は書いています(「プラトンのイデヤの本質」)。自分目身の人生をどのように生きるのか、そして、日常生活に襲いかかってくる悲惨や苦難をどう処遇すればよいのか、こうした人生、あるいは生活上の問題に対して、解決とまではいかなくとも、あるべき方向を模索するための道具が哲学だったのです。善き生のための「道」を求めていたといってよいでしょう。(p323)
西田は、思索することは「学者」になることなどではなく、できれば偉大な「人」に触れることだと思っていたのです。それは生きる「道」にかかわることなのでした。
そこには、ずっと西田の心痛の種であった家族の不幸があり、襲い掛かる苦悩がありました。経験こそがすべてだったのです。それをとことん掘り下げてその底にあるものを取り出そうとしたのです。それを取り出すことが彼の生そのものであり、そこに、西田独自の哲学が生み出されたのでした。(p324)
西洋の哲学と日本の哲学
私は、ここに、広場から始まった西洋の哲学と、道から生まれた日本の哲学の決定的な違いを見たくもなるのです。あるいは対話から始まった西洋的思考と散歩が生み出した日本の思考といってよいかもしれません。
もっとも、それが日本には論理的思考や体系的哲学が生まれなかった理由なのかも知れません。西行にせよ、鴨長明にせよ、青田兼好にせよ、松尾芭蕉にせよ、いかにも「日本」独特の思索者は、旅人だったり、隠遁者だったりします。基本的に自己内対話型なのです。(p324)
ソクラテスの哲学について
ソクラテスにとっては、哲学(知を愛すること)とは、人が善く生きるための指針だったのです。それは「誤った思考」から人を救い出し、真理への道を示すものでした。(p323)・・・そのためにソクラテスが取った方法は「人との対話」でした。(p323)
ソクラテスの方法は、広場で公衆を前にして議論するのですから、知識は他人にもわかるように公共的なものでなければなりません。ここに、誰でもわかる「論理」というものがでてきます。(p324)
西洋の哲学は、人との対話によって、いわば知識が前へ前へと進化する方向へと向かうのでしょう。たとえば対話(ダイアローグ)は、やがてヘーゲルのような「弁証法(ディアレクティーク)」になるのです。(p324)
西田の哲学について
これに対して、わが哲学者、西田は、ひたすら歩きながら沈思黙考したのです。自己の内に沈潜し、自己内対話を行っていた西田の哲学は、ひたすら自己と向き合い、自己のうちを反省し、自己の底を覗き込もうとします。その底を突き破って、その果てに普遍的で絶対的なものを見出そうとしたのでした。(p324)
西田がやったのは「散歩」です。歩きながら「考えること」でした。彼が考えることで、そこに「道」ができたのです。西田にとって、哲学とは生きることそのものであり、生という事実に直結した営みだったのです。
「人生問題なくして何処に哲学というものがあろう」と彼は書いています(「プラトンのイデヤの本質」)。自分目身の人生をどのように生きるのか、そして、日常生活に襲いかかってくる悲惨や苦難をどう処遇すればよいのか、こうした人生、あるいは生活上の問題に対して、解決とまではいかなくとも、あるべき方向を模索するための道具が哲学だったのです。善き生のための「道」を求めていたといってよいでしょう。(p323)
西田は、思索することは「学者」になることなどではなく、できれば偉大な「人」に触れることだと思っていたのです。それは生きる「道」にかかわることなのでした。
そこには、ずっと西田の心痛の種であった家族の不幸があり、襲い掛かる苦悩がありました。経験こそがすべてだったのです。それをとことん掘り下げてその底にあるものを取り出そうとしたのです。それを取り出すことが彼の生そのものであり、そこに、西田独自の哲学が生み出されたのでした。(p324)
西洋の哲学と日本の哲学
私は、ここに、広場から始まった西洋の哲学と、道から生まれた日本の哲学の決定的な違いを見たくもなるのです。あるいは対話から始まった西洋的思考と散歩が生み出した日本の思考といってよいかもしれません。
もっとも、それが日本には論理的思考や体系的哲学が生まれなかった理由なのかも知れません。西行にせよ、鴨長明にせよ、青田兼好にせよ、松尾芭蕉にせよ、いかにも「日本」独特の思索者は、旅人だったり、隠遁者だったりします。基本的に自己内対話型なのです。(p324)
『新潮45』 (2014年第6月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第41回 ”京都と西田幾太郎” 副題(西田のような哲学は京都からしか生まれなかったことは間違いない。決して東京では生まれない。p.322-330)から抜粋
斜体字の部分は私が覚えのメモを挿入しています。
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