『新潮45』 (2013年第9月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第32回 ”西田哲学「絶対無の場所」” p.324-332
小見出し”決して「慟哭せぬもの」”から引用
いつも意識されるわけではないにせよ、あれやこれやの経験に先立って確かに「私」がおり、その「私」があれやこれやの出来事をひとつの「経験」として理解したり解釈したりする。
特に西洋思想ではそのような不動の「私」を経験に先立って打ち立てて、それを「超越的自我」だとか「先験的自我」と呼びました。・・ここでは、具体的経験に先立って「私」があり、その「私」が経験において喜んだり悲しんだり苦しんだりするのです。
別の考え方ができないのでしょうか。p325
小見出し”「場に過ぎない」”から引用
「サエキ」とい特殊なものが日本人という、より一般的なものにおいて存在している、と。「さえき」なるものは「気難しい人」と言うより一般的なカテゴリーの上で存在している、ということです。もう少しわかりやすくいうと、「サエキ」は京都在住である。「京都人」は、より一般的なカテゴリーである「日本人」に包括される。したがって、当然、「サエキ」は日本人であります。そして「日本人」はより一般的な「人間」に包括される。
これは言い換えれば、「人間」のなかで「日本人」が限定され、さらに「日本人」のなかで「京都人」が限定され、「京都人」の中で「サエキ」がが限定される。つまり主語はより一般的なものにおいてう存在、一般的なものによって限定される、ということです。述語はより一般的なものとして主語を限定するのです。
たとえば「ニシダは京都に住んだ誠実で優秀な日本の哲学者である」という命題があったとします。
それは一方では「誠実」や「優秀」や「日本」や「哲学者」などという一般的な属性によってニシダを定義しているのですが、別の見方をすれば、多様な一般的な概念をあれやこれやと限定して「ニシダ」という特殊な存在を導いているのです。
当然ニシダはかず「人間」です。その「人間」と言う一般的なものを「日本人」と限定し、さらに「京都」によって限定し、「哲学者」によって限定し、その「哲学者」をさらに「優秀」によって限定し、それをさらに「誠実」によって限定しているのです。こうして、「一般的概念」としてある述語を、そこにおいて限定して主語と言う「特殊な概念」へと接近していく。
そうするとそうなるか。「ニシダ」とは、「哲学者」や「日本人」や「優秀さ」などがそこにおいて実現されるある一つの場とみることができるでしょう。というより、そのように見るほかありません。「ニシダ」という実態そのものとして定義することはできません。それは様々な性質(一般概念)が、交差し、また、そこにおいて様々な性質が生みだされるところの場と言うほかないでしょう。「優勝な日本の哲学者」という一般的な概念が「ニシダ」という場所において実現しているのです。
・・・・・そのようなり方を西田哲学では「於いてある場所」と表現します、「サエキ」も「ニシダ」も「於いてある場所」にほかならないのです。
・・・・・・
多様な状況のなかで、「サエキ」がある形をとって浮かび上がってくるのです。本当に存在するのは場所だけなのです。「サエキ」はこれらすべてを統合している場に過ぎないのです。・・・・・この「場」は、必然的にすべてを含み持っている、ともいえる・・。「サエキ」という個物が、様々な状況の中で表現しうるあらゆる属性を秘めているともいえることになる。
・・・・・・・
こうしてあらゆる可能性をすべて包括してゆくとどうなるか。最終的には「サエキ」は「存在そのもの」ある、ということになるでしょう。それは、すべてのものを包括した最も一般的な「存在」なのです。
・・・・・・・
・・・論理の問題としていえば、無限の可能性を包括する「存在」として「於いてある場所」が「サエキ」なのです。(p326-328)
小見出し”つまりそれは「無」”から引用
このもっとも一般的な包括的な「存在」とはいったい何なのでしょう。
実は、西洋思想においては、それは端的に「神」と理解されてきた。
あるいは、ギリシア哲学的に「イデア」といってもよいでしょう・・。
・・・日本や東洋は、西洋的な、つまりユダヤ・キリスト教およびイスラム教的な絶対神という明白な観念は生み出しませんでした。
すると、すべてを包摂する「存在」にあたるものはいったい何なのでしょうか。
包摂的判断の概念に見立てていい直せば、潜在的にあらゆる属性や性格がすべて「サエキ」に於いてあるというこのになる・・。それを「サエキ」とは「於いてある場所」といったのでした。
仮にそれ命題の形でいえば、最終的に「サエキは存在である」としかいいようがないでしょう。だから「サエキ」とは「存在」がそこに於いてある場所ということになる。しかし、このでいう「存在」が何か実態的なものだすると、それはさらに別のもので特徴づけられ包摂されるはずです。つまり「存在」が実体ならば、それは、それ自体が再び主語となって別の一般的概念の包摂されるはづなのです。しかしここでいう「存在」(有ること)は、もっとも一般的ですべてを包摂しているのですから、それをもはや実体として扱うわけにはいきません。それは「無」というほかないのです。
だから、ここではすべてを包摂する究極の存在(「超越的述語面」といわれるもの)は、それが「於いてる場所」である「サエキ」(「超越的主語面」といわれるもの)と一致することになる。しかもそれは「無」に他ならない。なぜなら「サエキ」という実体はどこにもない。
・・・・・
「サエキ」に代えて「私」として考えてみましょう。
「私とは何か」というのは伝統的な哲学上の難問ですが・・・・。確かに、実感としても「私」などというものは定義できません。・・だから、結局、「私」とは、様々な状況のなかで様々な行動を起こし、ある性癖を見せる、つまり多様な働きの集合というほかありません。そこに固定された実体はない。それは実体的には「無」ということになる。その意味では、「無」だからこそ「私」の内には無限の可能性があるのです。
しかしこの「無」を、無限の可能性を入れた何か入れ物のようにイメージするのは正しくありません。
・・・それは「器」ではなく、その都度その都度、そこに「私」を映し出す「鏡」のようなものというべきでしょう。・・・・
・・・意識の底の部分で、いわば私は、「無」という場所を鏡として、そこに自己を映しているのです。これが「自覚」ということなのです。p328-329
小見出し”心の底とはどこなのか”から引用
本当にあるものは、状況のなかにあって「於いて、映しだす」という作用だけです。それがここでいう「鏡」にほかならず、本当に重要なのは、映しだす作用の方だ、ということになる。
・・・・
私とは、実はこの「場所」にほかならない、といいました。われわれが通常、「私」とか「我」とかいっているのは、具体的な状況のなかで、・・・・表現されたその都度その都度の「私」にす過ぎず、それは、根源にある「私」(無の場所)において様々なものによって限定された影像に過ぎない。
かくして、鏡に映った「私」をあくまで鏡に映った「私」として認識することが決定的に大事なことになります。これは自己をできるだけ殺して反省することにほかなりません。真の自己がどこにあるかという「自覚」もそこからでてくる。だから西田のいい方を借りれば、「自覚」とは「自己のうちに自己を映す」ということになる。
西田が短歌のなかで、我が喜びも憂いも届かぬ心の底がある、といったのも、このようなことでしょう。心の底とは、「無の場所」です。
・・・・・
それは(無の場所)は、具体的なこの世界や世情における経験に寄り添いながらも、その経験する「私」を「私」として映しだす、もっとも包括的で絶対的な場所といわなければならない。
・・・・・
この場所は実体としての「私」を離れてどこかにあるものではない。私から見れば、常に私の背後に影としてついてまわるものなのです。しかし、この影の方から見れば、実は、「私」こそが陰影に過ぎないのです。
ここで見方の転倒が生じている。先ほどの論理で説明したように、論理を突き詰めれば、根源的なものは「無の場所」といわねばなりません。われわれが実在だと思っているものは、その影なのです。「私」もまた影としてこの世に存在する。そして、この場合「無」は、究極的なすべてを包括する存在でもある。というのことは、それは[有(存在)」に対する「無(非存在)」ではなく、この「有」も」無」も超えてしまった「無」、もしくは、「有」とも「無」ともいうような絶対的は何か、ということになる。それを西田は「絶対無」といいました。だから、もっとも根源的で絶対的なものは「絶対無の場所」なのです。p329-332
小見出し”決して「慟哭せぬもの」”から引用
いつも意識されるわけではないにせよ、あれやこれやの経験に先立って確かに「私」がおり、その「私」があれやこれやの出来事をひとつの「経験」として理解したり解釈したりする。
特に西洋思想ではそのような不動の「私」を経験に先立って打ち立てて、それを「超越的自我」だとか「先験的自我」と呼びました。・・ここでは、具体的経験に先立って「私」があり、その「私」が経験において喜んだり悲しんだり苦しんだりするのです。
別の考え方ができないのでしょうか。p325
小見出し”「場に過ぎない」”から引用
「サエキ」とい特殊なものが日本人という、より一般的なものにおいて存在している、と。「さえき」なるものは「気難しい人」と言うより一般的なカテゴリーの上で存在している、ということです。もう少しわかりやすくいうと、「サエキ」は京都在住である。「京都人」は、より一般的なカテゴリーである「日本人」に包括される。したがって、当然、「サエキ」は日本人であります。そして「日本人」はより一般的な「人間」に包括される。
これは言い換えれば、「人間」のなかで「日本人」が限定され、さらに「日本人」のなかで「京都人」が限定され、「京都人」の中で「サエキ」がが限定される。つまり主語はより一般的なものにおいてう存在、一般的なものによって限定される、ということです。述語はより一般的なものとして主語を限定するのです。
たとえば「ニシダは京都に住んだ誠実で優秀な日本の哲学者である」という命題があったとします。
それは一方では「誠実」や「優秀」や「日本」や「哲学者」などという一般的な属性によってニシダを定義しているのですが、別の見方をすれば、多様な一般的な概念をあれやこれやと限定して「ニシダ」という特殊な存在を導いているのです。
当然ニシダはかず「人間」です。その「人間」と言う一般的なものを「日本人」と限定し、さらに「京都」によって限定し、「哲学者」によって限定し、その「哲学者」をさらに「優秀」によって限定し、それをさらに「誠実」によって限定しているのです。こうして、「一般的概念」としてある述語を、そこにおいて限定して主語と言う「特殊な概念」へと接近していく。
そうするとそうなるか。「ニシダ」とは、「哲学者」や「日本人」や「優秀さ」などがそこにおいて実現されるある一つの場とみることができるでしょう。というより、そのように見るほかありません。「ニシダ」という実態そのものとして定義することはできません。それは様々な性質(一般概念)が、交差し、また、そこにおいて様々な性質が生みだされるところの場と言うほかないでしょう。「優勝な日本の哲学者」という一般的な概念が「ニシダ」という場所において実現しているのです。
・・・・・そのようなり方を西田哲学では「於いてある場所」と表現します、「サエキ」も「ニシダ」も「於いてある場所」にほかならないのです。
・・・・・・
多様な状況のなかで、「サエキ」がある形をとって浮かび上がってくるのです。本当に存在するのは場所だけなのです。「サエキ」はこれらすべてを統合している場に過ぎないのです。・・・・・この「場」は、必然的にすべてを含み持っている、ともいえる・・。「サエキ」という個物が、様々な状況の中で表現しうるあらゆる属性を秘めているともいえることになる。
・・・・・・・
こうしてあらゆる可能性をすべて包括してゆくとどうなるか。最終的には「サエキ」は「存在そのもの」ある、ということになるでしょう。それは、すべてのものを包括した最も一般的な「存在」なのです。
・・・・・・・
・・・論理の問題としていえば、無限の可能性を包括する「存在」として「於いてある場所」が「サエキ」なのです。(p326-328)
小見出し”つまりそれは「無」”から引用
このもっとも一般的な包括的な「存在」とはいったい何なのでしょう。
実は、西洋思想においては、それは端的に「神」と理解されてきた。
あるいは、ギリシア哲学的に「イデア」といってもよいでしょう・・。
・・・日本や東洋は、西洋的な、つまりユダヤ・キリスト教およびイスラム教的な絶対神という明白な観念は生み出しませんでした。
すると、すべてを包摂する「存在」にあたるものはいったい何なのでしょうか。
包摂的判断の概念に見立てていい直せば、潜在的にあらゆる属性や性格がすべて「サエキ」に於いてあるというこのになる・・。それを「サエキ」とは「於いてある場所」といったのでした。
仮にそれ命題の形でいえば、最終的に「サエキは存在である」としかいいようがないでしょう。だから「サエキ」とは「存在」がそこに於いてある場所ということになる。しかし、このでいう「存在」が何か実態的なものだすると、それはさらに別のもので特徴づけられ包摂されるはずです。つまり「存在」が実体ならば、それは、それ自体が再び主語となって別の一般的概念の包摂されるはづなのです。しかしここでいう「存在」(有ること)は、もっとも一般的ですべてを包摂しているのですから、それをもはや実体として扱うわけにはいきません。それは「無」というほかないのです。
だから、ここではすべてを包摂する究極の存在(「超越的述語面」といわれるもの)は、それが「於いてる場所」である「サエキ」(「超越的主語面」といわれるもの)と一致することになる。しかもそれは「無」に他ならない。なぜなら「サエキ」という実体はどこにもない。
・・・・・
「サエキ」に代えて「私」として考えてみましょう。
「私とは何か」というのは伝統的な哲学上の難問ですが・・・・。確かに、実感としても「私」などというものは定義できません。・・だから、結局、「私」とは、様々な状況のなかで様々な行動を起こし、ある性癖を見せる、つまり多様な働きの集合というほかありません。そこに固定された実体はない。それは実体的には「無」ということになる。その意味では、「無」だからこそ「私」の内には無限の可能性があるのです。
しかしこの「無」を、無限の可能性を入れた何か入れ物のようにイメージするのは正しくありません。
・・・それは「器」ではなく、その都度その都度、そこに「私」を映し出す「鏡」のようなものというべきでしょう。・・・・
・・・意識の底の部分で、いわば私は、「無」という場所を鏡として、そこに自己を映しているのです。これが「自覚」ということなのです。p328-329
小見出し”心の底とはどこなのか”から引用
本当にあるものは、状況のなかにあって「於いて、映しだす」という作用だけです。それがここでいう「鏡」にほかならず、本当に重要なのは、映しだす作用の方だ、ということになる。
・・・・
私とは、実はこの「場所」にほかならない、といいました。われわれが通常、「私」とか「我」とかいっているのは、具体的な状況のなかで、・・・・表現されたその都度その都度の「私」にす過ぎず、それは、根源にある「私」(無の場所)において様々なものによって限定された影像に過ぎない。
かくして、鏡に映った「私」をあくまで鏡に映った「私」として認識することが決定的に大事なことになります。これは自己をできるだけ殺して反省することにほかなりません。真の自己がどこにあるかという「自覚」もそこからでてくる。だから西田のいい方を借りれば、「自覚」とは「自己のうちに自己を映す」ということになる。
西田が短歌のなかで、我が喜びも憂いも届かぬ心の底がある、といったのも、このようなことでしょう。心の底とは、「無の場所」です。
・・・・・
それは(無の場所)は、具体的なこの世界や世情における経験に寄り添いながらも、その経験する「私」を「私」として映しだす、もっとも包括的で絶対的な場所といわなければならない。
・・・・・
この場所は実体としての「私」を離れてどこかにあるものではない。私から見れば、常に私の背後に影としてついてまわるものなのです。しかし、この影の方から見れば、実は、「私」こそが陰影に過ぎないのです。
ここで見方の転倒が生じている。先ほどの論理で説明したように、論理を突き詰めれば、根源的なものは「無の場所」といわねばなりません。われわれが実在だと思っているものは、その影なのです。「私」もまた影としてこの世に存在する。そして、この場合「無」は、究極的なすべてを包括する存在でもある。というのことは、それは[有(存在)」に対する「無(非存在)」ではなく、この「有」も」無」も超えてしまった「無」、もしくは、「有」とも「無」ともいうような絶対的は何か、ということになる。それを西田は「絶対無」といいました。だから、もっとも根源的で絶対的なものは「絶対無の場所」なのです。p329-332
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