奈良女子高等師範学校国文科卒の祖母は超達筆でした。特に平仮名(変体仮名)が上手く、お手本のような字を書いていました。愚母もその血をひき下手ではなかったのですが、イマイチでした。愚弟は親父に似て金釘流、絵に描いたような拙筆でした。
親父は結婚式などに呼ばれると、指に必ず包帯を巻いて出かけていました。
『これ巻いておくと、受付が代筆してくれるんだ』
着るものにはまったく頓着せず、夏はステテコ一丁にランニング姿で下駄履き、冬はカーキ色のジャンバーに下駄履きという格好をしているのに拙筆を恥ずかしがるのです。字よりも衣服に人の視線が集まるのになぁと思いました。
蟷螂は祖母の血をひいて少し字はうまかったのですが、小学校の頃、同級生に習字塾の子供がいて、展覧会では必ず金賞をもらっていました。蟷螂は内心、『どこが上手いんだろう?』と、思い、字の巧拙の基準がまったくわかりませんでした。
店(食堂)のメニュー書きは、幼い頃から蟷螂の仕事でした。書くと普段はお年玉ひとつくれないケチな父親が珍しく小遣いをくれるのです。大した仕事でもないのに。
さすがにふぐ屋のメニューは、親父の中学の同級生に頼んでいました。著名な挿絵画家でした。簡単な挿絵付きの短冊で、絵にも字にも味がありました。
蟷螂は中学に入ると書道部に入りました。先生もにこやかで温厚そうなので入部したわけです。
ところが1年生の夏の合宿の時、宿の廊下を友達を追いかけて走ったら、いきなりその先生に、廊下から吹き飛んでしまうほど頬を叩かれました。家でよく親父に殴られていたので、せめて学校では穏やかにと思っていたので意外でした。新学期に入ると、自然に書道部から足が遠のきました。
そして中学時代は一切クラブ活動をせず、日曜は店の皿洗いをして過ごしました。
高校に進学すると1年時には書道の授業がありました(中高一貫の学校でした)。授業で蟷螂が筆を取っていると後ろに立った件の先生が、
『君、字、上手いね』
というではありませんか。
『いまさらかい!』
と思いました。
その時蟷螂はもう美術部の部員でした。アクションペインティングに青春の全てを叩きつけていたのです。
三鷹の、奈良女子高等師範学校卒の祖母の家でしばらく生活したことがありました。度重なる親父の虐待?に耐えかねて、避難したのです。
祖母は、渡米してGEに奉職した叔父に、長い半紙に書いた蟷螂の書を送っていました。
『あちらでは墨文字をありがたがるんだって』
ということらしいです。
『天地玄黄宇宙洪荒』などと、授業で書いた巻紙を、祖母はアメリカへせっせと送っていました。
祖母の書いた仮名文字の方が達筆だったので、少し気恥ずかしかったことを覚えています。
今でもアメリカのどこかの家庭の壁に蟷螂の書が飾ってあるかもしれません。
字の巧拙はかなりはっきりした遺伝です。字を習うのは無駄な努力といえます。いくら習っても下手な人は下手、第一、仮に習ってうまくなっても、看板書きくらいにしか役立たないのです。
ましてやパソコンで簡単にプリントアウトできる今となっては、ソロバン同様無用の技術でしょう。
なのでアンポンタン大バカ間抜け倅に時を教えることはしませんでした。
倅の字は親父も裸足で逃げ出すほどの、『悪筆』だったからです。