毎年のことですが、また、15日がやってきます。
新しい日本が出発した日。
新しい日常の日本。
なんだかダブります。
戦前は超常識だったものが、敗戦後は超非常識になった昭和20年8月15日。
コロナ後の新しい日本の日常も、コロナ前は常識だったことが非常識に。
今年はインフルやその他の感染者数が異常なほど少なくなり、日本国民はこれまでどれだけ不潔な生活をしていたのかと思うと、慄然とします。
蟷螂はそんな真夏の8月15日は、毎年必ず昭和版『日本のいちばん長い日』を見ることにしています。
東宝のDVDを再生しながらパンフレットを手にしてページを繰ると、ふと『その日わたしは』のページが目にとまりました。
終戦の日を経験した当時の出演者のアンケートです。
主だった出演者が8月15日の思い出を語っています。
■阿南陸軍大臣役の三船敏郎
1、昭和20年8月15日はどこで何をしていましたか。
昭和14年徴収陸軍航空上等兵として熊本隈の庄特攻基地に服務。
2、終戦を知った時、どんな気持ちでしたか。
快哉を叫んだ。
3、『日本のいちばん長い日』の出演者の一人として感じたことは。
どのような理由があったにせよ、驕れる軍部に踊らされ、偉大なる無駄と罪悪を犯していたということ。
■第302海軍航空隊副長官菅原中佐役の平田明彦
ご本人も陸軍幼年学校、陸軍士官学校、第一高等学校、東大法学部卒のエリートなのに俳優という職業を選んだ数奇な運命の持ち主
1、陸軍士官学校歩兵科士官候補生として北軽井沢で訓練中。17歳。
2、徹底抗戦。
3、日頃の安逸な生活から身の引き締まる思いがします。
■矢部国内局長役の加東大介
1、西部ニューギニアのジャングルの中で、将兵のために演芸部隊を作って芝居をしていた。
2、死んだ大勢の戦友のことを考えさせられた。
3、良識ある人々によって戦争が終わってよかったと思うこと。この戦争秘話は日本中の人にみてもらいたいと思った。
■森近衛師団長役の島田正吾
1、自宅で玉音放送を聞きました。40歳。
2、泣きました。
3、日本人としての思いを新たにしています。
ちなみに最後り日比谷の放送会館になだれ込んだ畑中少佐は、アナウンサーの舘野(加山雄三)に拳銃を突きつけますが、『玉音放送を死守せよ』でご本人(柳澤恭雄)が、畑中少佐はあんなにブルブル銃口を震わせない冷静な男だったと証言しています。
ついでに平成版『日本のいちばん長い日』も見ました。
原田監督は、映画を知らない人だと、改めて確信しました。
東条英機役の麿赤児だけがはまり役だった、駄作の誉れ高い平成版『日本のいちばん長い日』。
昭和版では昭和天皇役の顔をはっきり映し出してはならないと、宮内庁からお達しが入ったと、上映当時の新聞で読んだ記憶があります。
それが平成版ではモックンが饒舌に演じています。
平成版の『いちばんの違和感』は、暑さです。
暑さが全く感じられません。
軍服を着てあの暑い夏の最中に動き回れば、汗みどろになってもおかしくないはず、それが『冬?』と思えるほどの涼しさが感じられ、緊迫感が全く伝わってきません。
頭から水をかぶって撮影するくらいの気迫で撮影していれば、まだ説得力があったのですが。
監督は昭和版を見て、上っ面をなぞっただけですね。
ところで、昭和版を見て毎回思うことがあのます。
歴史に『もし』は禁物ですが、もし、ポツダム宣言を1945年の7月に受諾していたら、ソビエトの参戦も広島、長崎の原爆もなかったことになります。
ポツダム宣言原文
https://www.ndl.go.jp/constitution/e/etc/c06.html
http://afe.easia.columbia.edu/ps/japan/potsdam.pdf
訳文
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/potsudam.htm#potudam
しかしながら、終戦を決定的に決断させたのは、やはり原爆だったのではないでしょうか。
それではもし、8月15日に日本がポツダム宣言を受け入れていなかったらどうなっていたでしょう。
日本はソビエトとアメリカで2分割されていたのでしょうか。
当時北方4島に侵攻したソビエト軍は、島民各戸の扉を開けると、『アメリカ兵はいるか?』と聞き回ったそうですが・・・
当時もソビエトはアメリカを恐れていたのですね。