トレードセンター前駅から南港の野鳥園に行く遊歩道にはいろんな草木が植えられています。春に来ると色とりどりの花で随分と賑やかな並木道だろうと想像できますが、今は冬枯れで椿の真っ赤な花が目立つぐらいでした。その中で、ふと目についたのがこれです。〈撮影日は1月22日〉↓
何だろうとかがみ込んでパチリ。アップしたものをご覧ください。↓
綿ですよね! 綿に似た他の植物ではないですよね。(もし違ったらご指摘ください)
以前、横浜のおーちゃんのブログで綿の実の画像を拝見しましたが、実際に見たのは初めてです。(綿の実という呼び方でいいのでしょうか?)
触ってみたいという衝動にかられましたが、やめました。壊れて散ったらどうしようかと思ったからです(タンポポの綿毛とは違うと思いながらも)。
この綿を見ていて、江戸時代の大坂は河内木綿の名産地でもあったことを思い出しました。綿は荒れ地でも結構育つらしいですね。
江戸時代の半ばに、河内平野を横切って淀川に合流していた大和川の付け替え工事が行われました。柏原(かしわら)から北に流れていた川を90度西に向きを変え、現在のように大阪湾に注ぐ流れに変えたのです。こんな大工事を1年未満で完成させた江戸時代の土木工事の技術には驚きを覚えます。
川の氾濫がひどかった大和川が無くなったあとを新田として開発し、多くの人々が競って綿を植えたのです。川の跡地は米を作るには適さず、荒れ地でも育つ綿は、河内木綿として特産品になりました。JR片町線(学研都市線)に「鴻池新田」がありますが、これも当時の名残の名前です。
伊丹で濁り酒から日本で初めて清酒を造り、造り酒屋として財を成した鴻池家が大坂に進出し新田を開発して豪商の地位を揺るぎないものにしたのがこの鴻池新田です。でも今はもう河内木綿が特産品であったことを知る人も少なくなりました。
このたったひとつの真っ白な綿の実が、江戸時代の河内木綿を思い起こさせてくれたのです。野鳥園の帰りに寄った海の時空館に展示されていた菱垣廻船も、大坂から江戸へ綿や木綿を沢山運んだと知った時、最初に出会ったこの綿とは白い(?)糸で結ばれていたのかもしれない・・・と、ひとときロマンと空想に浸らせてくた綿の実です。
何だろうとかがみ込んでパチリ。アップしたものをご覧ください。↓
綿ですよね! 綿に似た他の植物ではないですよね。(もし違ったらご指摘ください)
以前、横浜のおーちゃんのブログで綿の実の画像を拝見しましたが、実際に見たのは初めてです。(綿の実という呼び方でいいのでしょうか?)
触ってみたいという衝動にかられましたが、やめました。壊れて散ったらどうしようかと思ったからです(タンポポの綿毛とは違うと思いながらも)。
この綿を見ていて、江戸時代の大坂は河内木綿の名産地でもあったことを思い出しました。綿は荒れ地でも結構育つらしいですね。
江戸時代の半ばに、河内平野を横切って淀川に合流していた大和川の付け替え工事が行われました。柏原(かしわら)から北に流れていた川を90度西に向きを変え、現在のように大阪湾に注ぐ流れに変えたのです。こんな大工事を1年未満で完成させた江戸時代の土木工事の技術には驚きを覚えます。
川の氾濫がひどかった大和川が無くなったあとを新田として開発し、多くの人々が競って綿を植えたのです。川の跡地は米を作るには適さず、荒れ地でも育つ綿は、河内木綿として特産品になりました。JR片町線(学研都市線)に「鴻池新田」がありますが、これも当時の名残の名前です。
伊丹で濁り酒から日本で初めて清酒を造り、造り酒屋として財を成した鴻池家が大坂に進出し新田を開発して豪商の地位を揺るぎないものにしたのがこの鴻池新田です。でも今はもう河内木綿が特産品であったことを知る人も少なくなりました。
このたったひとつの真っ白な綿の実が、江戸時代の河内木綿を思い起こさせてくれたのです。野鳥園の帰りに寄った海の時空館に展示されていた菱垣廻船も、大坂から江戸へ綿や木綿を沢山運んだと知った時、最初に出会ったこの綿とは白い(?)糸で結ばれていたのかもしれない・・・と、ひとときロマンと空想に浸らせてくた綿の実です。
ご返事は「あなたも古稀になりましたね、「おめでとう」の記事に書きました。
下を向いているか上を向いているかの違いがありますが綿だと確信しました。
ありがとうございました。
これで良く解るかも。
綿の実、正確にはコットンボールというのですね。
あき津亭の上の写真は緑の葉を除けば、間違いないと思うのですが。
花は芙蓉の花のように大きいとは驚きました。私の見たコットンボールとおぼしきものは直径3~4センチぐらいでしたから想像できません。
綿の種を買ってきて植えてみようかなぁ、鉢植えしかできませんけど。私は今から自然を覚えるために。
http://www.hk.sun-ip.or.jp/rina-u/cottonboll.htm
花は芙蓉の花のように大きく、秋になると実が茶褐色になり、三つか四つに割れて中から写真のようなふわふわな綿ボールが飛び出して来ます。
下の二つのHPを見ると・・・・・
あき津亭の「しあわせなコットンボール」http://www.eco-online.org/cottonball/i.htm
日本綿業振興会の「フォトギャラリー」http://www.cotton.or.jp/gallery.html
少し綿のことが判るでしょう。
「綿の実」(コットンボール)から木綿を紡ぐ道具・・・・正しくは綿の実をコットンボールから取り出す道具・・・・があき津亭の右下の写真に見られます。
私も播州加古川に住まいしてるとき、子供に自然を教えるため、綿をを栽培したことがあります。
う~ん、たった1本だけやったし、葉が落ちてひょろひょろとした茎の先にぽわんと白い綿ボールがついていた状態やったからねぇ。
うん、綿と確信しとこ
花の咲く時期に行って確かめなあかん。でも草抜きや掃除で抜かれてしまいそうな気もするなぁ。
ここは、スイポテさんかゆめのさんに綿の栽培をしてもろて確かめたほうが確実かも。(人まかせ)
この実はの感じは似ていますが・・・。
余計な事ですが気になったもんで・・・。
でも収穫すると綿として使えそうだから綿だと信じましょう!!
そうそう、私もね、綿の実からは布団の綿しか想像できなかった口。木綿が綿から出来ていることに気づいたのはそんな昔やおません。
弾けたい、弾けたい、思いっきり弾けたい
仕事で追われているとなおさらそう思いまっせ~。
成人式を何回も過ぎている私でさえ始めてだったのですから。
大坂のそれも大半がゴミで作られた人口島の南港で、綿の実を見た時の感激は言葉に言い表せないほどの感動がありました。かなりロマンに走りすぎた傾向の強い記事になりましたけどね(笑)
夢がはじけるとおっしゃっていただけたのは最高の褒め言葉と受け取っています。おおきに。
ぜひぜひ綿の栽培をして日本古来の木綿を作っていただけたら嬉しい。
河内木綿は仕事関係で知りました。これも役得?(笑)
濁りのない清酒を最初に造った伊丹の鴻池のことを知ったのも仕事関係からで、あまり自慢にはなりませんです。はい。
ついでにその時に播州の山田錦が灘のお酒を有名にした最高の米であることも知りました。これも役得(笑)
河内木綿の末裔の綿・・・もう私の気持ちを代弁してくれてほんと嬉しいお言葉。
時空間を旅して現れた綿なんて、ロマンチストのポージィさんならではです。
ファンタジーの世界は気持ちを明るくしてくれます。嬉しい嬉しい嬉しい。の3連発(笑)
poloさんが無知? 何をとんでもないことを! poloさんの知識の深さにいつも感嘆しています。ほんまですよ。
私自身、木綿からすぐに綿の実に結びつきませんでした。日本は古来から綿を植えて生地を作っていたことを知ったのは最近のことです。明治に入って海外の安い綿花が輸入されるようになって日本古来の綿が廃れたことを知ったのも最近のことでした。私にとって綿は最初から輸入品とのイメージしかありませんでした。
河内木綿が江戸時代の大坂の名産品であったことは知っていたのですが、それからいろいろ資料を調べてようやく綿の実のUPにこぎつけました。
綿の花、楽しみですね。おもちゃ箱にUPされるのが楽しみ。経過も見られたら嬉しいな。
この遊歩道に春になったらまた行ってみるつもりです。綿の実のその後も知りたいので。
それにそれに河内の名の謂われまで教えてくれてもういうことなし。
柏原から北へ伸びる大和川はいくつにも分かれて淀川に注いでたと資料にありました。
なるほどなるほど、大和川に挟まれた河の内だったから河内と名付けられたとな。これは勉強になりました。ほんまおおきに。さすが大阪の中年の若ぼん!(笑)
素敵な想像力です。
ほんとにほんとにその昔作られていた河内木綿の綿の末裔かも。
時空間を旅して、現代のこの場所に迷い込んだ綿、なんて
考えたらあまりにファンタジー過ぎます?
発見したときのあまもりさんの(ドキドキ)が伝わってくるようなブログです。
写真で(或いは本などで)見ただけのものを自分で発見したときの心躍る気持ち!!
私も、春になったら植えようと綿の種を持っています。
綿の花も見たいしね。
この写真の綿も、自然にこぼれてまた芽を出すといいですね。
そして少し補足。
河内という地名の由来は、その大和川を付け替える前に大和川に囲まれていた地域が河の内側という意味なのですね。
地名や人名の由来を知るのは面白いですね。
綿から糸紡ぎをして機織りで木綿の服を作る。
仕事をリタイアしたら一度やってみたい。私にはムリかなぁ。
その高校教師も素晴らしいですが、その人を生徒に持っているglimiさんも素晴らしい。
私のエスペラントの生徒のひとりは高校教師。手づくりが好きで、秋には生徒と共に泊まり込みで綿摘みに千葉県へ、糸紡ぎもやったようです。文化祭でも実演したり。この機械化の時代にと思う人もいるでしょうが、人の営みを知っているといないでは、生き方も違ってくるように思います。
ただ一つの綿の実からこんな事を考えるのは少し飛躍かもしれません!
ただ珍しくて宝物を見るような気分でした。
南港はゴミと土砂で作られたところですので、ゴミに紛れてきたのでしょうか。それとも小鳥が運んできたのでしょうか。
ゴミだとしたら河内からかな?なんて思ったりしました。
野生で残っているなんて素晴らしいです。
赤い椿の下に白いワタの対比もいいですね。
触った程度では壊れないですよ。